継がれゆくもの

 険しい道のりと獣達に守られたその秘境を目指す者は少なくなかったが、辿り着いたうち、全貌を正しく解する者がどれだけいただろうか。多くの人の目に映るのは、鏡のように澄んだ湖だけ。生まれながらに魔力を持った小数の者だけが、湖の中央に浮かんだ小島を目にすることができるという。
 小島には、つる草に覆われた古びた塔があった。数百年もの間、娘達が婚前の七日間を過ごすために使われてきたものだ。
 乙女達は一人塔にこもり、七日七晩かけて婚礼衣裳を織り上げる。純血を守り、次世代へと繋いでいく役目を暗示していたのだろう。だが、そんな風習も時と共に廃れてしまい、ここを利用する花嫁もめっきり減ってしまった。
 純血が衰退するにつれ、この塔も少しずつ忘れ去られていく。いつかこの塔を訪れる者が絶えた時、その時が純粋な魔法族の最期かもしれない…――ジニーは塔の窓から身を乗りだし、空を見上げた。今にも降りそそいできそうなほどの星々のきらめきに、知らず吐息を洩らす。
 空はいつでも変わらない。曇って星のよく見えない時も、雲の向こうには変わらず美しい空がある。星がその一生を負え、消えてしまっても、新たな星が何処かで誕生し、輝きを継ぐ。
 魔法族もそうだ。純粋な魔法使いがいなくなった後も、混血の魔法使い達が後を継いでくれるだろう。
 ビルはヴィーラの血が混じったフラーと。チャーリーも混血の女性と。パーシー、フレッド、ジョージは三人ともマグル出身の女性を妻に迎え入れた。そしてロンは長年の想いが実って、先月ハーマイオニーと結婚したばかり。
 ウィーズリー家の純血を継ぐのは、今やジニーだけだった。けれど、それも今宵限り。
 ジニーはマネキンに着せた純白のドレスを振り返った。明日それを身に着けてこの塔をでれば、ウィーズリー家の純魔法族としての血は絶たれる。何百年も続いてきた古き血が、絶える。
 その責任の重さに、自分はこうも気を取られているのだろうか。心から祝福してくれた両親を思いだし、ジニーは首を振った。そうではない。後ろめたさから忘れたふりをしていたかっただけだ。
 ドレスの裾の下に隠すように置いた鞄からノートを取りだす。元は黒かった革表紙が、僅かに赤茶けている。ジニーはしゃがんだまま、それをめくっていった。黄ばんだノートのどのページにも文字は書かれていない。ジニーの目はしかし丹念にページの隅から隅まで追っていった。
「……トム、久しぶりね。何年ぶりかしら。こうして、この日記帳を開くのは」
 このノートは、かつて最大最悪の魔法使いと恐れられたヴォルデモート卿が、自らの【記憶】を閉じ込めた日記帳だった。まだ幼かったジニーを利用し、命を奪いかけた【トム・リドル】の名を、ジニーは懐かしそうにささやく。
「誰とつきあっても、あたし、あなたの影を追ってた。あなたと似た人ばかり、好きになった。でも、全部同じじゃないから……違いが許せなくて。つきあっては別れてを繰り返してた。
 あたし、分かってたの。あなたとは、ずっと一緒にいられないってこと……いつも言ってたから。あたしが傷つかないように、あなたが教えてくれてたから。でもね、いつも現実を突きつけられてて、あたし、つらかった……少しだけでいいから、夢見てたかったの。あなたと一緒にいる未来」
 ハリーに倒され、消えかけたリドルが再び自分に取り憑いたことをジニーは思い返した。一度殺されかけた彼にまた気を許し、友達以上の好意を抱き、恋人と呼べるような関係になるまで、そう時間はかからなかった。
 相手が生身の人間ではないことなど、どうだっていいと思うほどに、ジニーは彼に惹かれていた。一緒にいて、話して、触れ合える。誰にも知られなくとも、祝福されなくても、それだけで十分に幸せだった。
 けれど、リドルは呆気なく消えてしまった。別れの言葉もなく、抜け殻となった日記帳だけを残して。
「トム……もう、これが最後ね。あたし、明日結婚するの。ハリーと……トムにお悩み相談していた子供の頃なら、きっと夢だって頬をつねってたわね」
 クスクス笑いながら、ジニーは目を瞑った。その途端、目から涙がすべり落ちていった。ぽた、ぽた、と黄色い紙に染みが広がっていく。
《泣かないで、ジニー》
 ジニーは目を開けた。リドルの声だ。何処かから、確かにリドルの声が聞こえてきた。
《久しぶりだね、ジニー……大きくなった。きれいになったね》
 ジニーはハッと日記帳を見た。涙の染みから光が生じている。まっすぐに壁際へと伸びた光の先には、誰かが立っていた。いや、誰かなんかじゃない。リドルだ。ジニーは涙を拭い、光の行く先をふらふらと追った。映写機に映しだされたようにぼんやりとしたリドルの姿がそこにあった。
「トム、いたのね……あなたはまだ生きてたのね……!」
《これは、もしもの時のために取った予防策。【記憶】の僕の【記憶】を少しだけ……この日記帳に戻しておいたんだ。別れも言えずにいなくなってしまった時のために》
「ひどい、ひどいわ…! あたしにもっと早く言ってくれれば、あんな…――」
 甘えるようにリドルに伸ばした手が、スイと宙を泳いだ。目を見開いたジニーに、リドルは微笑する。
《あと少しなんだ……僕が存在していられるのは》
「そんな……でも! 昔もそうだったじゃない! トムはあたしの心に取り憑いて、ちゃんと元気になったじゃない……今度もそうすれば」
《そして、また君と一緒に暮らすの? 明日、ハリー・ポッターと結婚する君と?》
「それは……」
 リドルの手が頬に向けられた。触れられた感触はやはりなく、ジニーはリドルを見つめたまま押し黙った。
 リドルはふっと眉を歪めて悲しげに言った。
《君は僕をずっと想っててくれると信じていた。でも、間違いだったね……君はハリーを選ぶんだ》
「そんな…、そんな……トム……」
 きっかけは他の恋人達と同じように、リドルと似ていたからだったかもしれない。けれど、ハリーは全てを分かろうとしてくれた。愛する人を急に失くして自暴自棄になったという共通の経験が、二人を結びつけたのだろうか。リドルとのことも知った上で、愛してくれた。そうしてジニーもいつしか彼の側にいたい、支えになりたいと強く思うようになっていた。だからこそ、プロポーズを受け入れたのだ。
 リドルとハリー。二人を天秤にかけるなど思いも寄らなかった。
 決断を迫るように、リドルは手を差し伸ばしてきた。
《違うというなら僕の手を取って、ジニー。僕の中に君を引き入れる……【記憶】の中で、ずっと一緒に暮らそう? 終わりのない時の中を、二人だけで》
 全身を震わせながら、ジニーはリドルを見つめた。サラサラとした黒髪も、紅茶色の真剣な眼差しも、ジニーの愛したリドルそのままだった。何も変わっていない。なのに、どうして違って見えるのだろう。どうして?
 ジニーはハッとした。目線だ。成長のないリドルと、成長を続けてきた自分。十六歳のままのリドルと、いつの間にか彼の年齢を越してしまった自分。
「駄目……駄目よ、トム。できないわ……ごめんなさい」
《どうして? 僕が嫌いになったの?》
「違う……違うけど、でも、駄目。だって、あたしは昔のままのあたしじゃない……あなたを失って泣きわめいて、それでも少しずつ立ち直って……それから、いろんな経験を積んできたわ。成長もした……だから、あなたを愛した、そしてあなたが愛した女の子はもういない。いないのよ……」
 思い出は心の澱となって、片時も忘れたことはない。けれど、思い出の中の痛みも苦しみも【過去】のものだ。【現在】ではない。
 リドルの唇にふっと笑みが灯った。悔しさを紛らすような笑い方ではない。
《分かったね、ジニー? それでいいんだ。【過去】にしがみついてたら【現在】が見えなくなる》
「トム…? まさか」
《自分よりも誰かのことを大事にする……僕に人を愛することを教えてくれたのは、君なんだ。君が幸せなら、僕も幸せだ。今度こそ、安心して消えることができる》
 しっかと抱いていた日記帳が不意に手元を離れ、リドルの方へと飛んでいく。ジニーは手を伸ばした。が、身体は動かない。リドルとの距離は、保たれたままだ。
《ジニー。誰よりも、何よりも幸せに……それだけが僕の願いだよ》
 リドルの両手から炎がほとばしった。それは瞬く間に日記帳に燃え移った。金混じりの赤い光がリドルの全身を包み込む。ジニーが「あっ」と声を洩らした次の瞬間には光は失せ、リドルの姿は何処にもなくなっていた。
 炎のまばゆさがなくなり、部屋が急に暗くなったように思われた。ジニーはへたりとその場に座りこんだ。腰が抜けたように、足が言うことを利かない。
 太ももからすべり落ちた手が床に転がり、手の甲に何かザラリとしたものを感じた。のろのろと腕を上げて見ると、それは燃えカスだった。
「ありがとう、トム……」
 ジニーはその手を唇に押し当てた。灰にはまだ微かな熱がこもっていた。

(2005/11/08)