光の向こうに

 ――お前はいい子ね、レグルス。長きに渡って古き血を守り通してきた、この由緒正しき家を導くに相応しい者となるように。アレのように道を違わぬよう、父とこの母の訓戒を守るのですよ。
 休暇で家に帰るごとに繰り返された言葉は、もうずっと前から空で言える。
 いつの頃からだったか、兄に向けられていた両親の視線は全て俺に向けられるようになっていた。最初はそのことが単純に嬉しかった。何でもそつなくこなすシリウスと違って、俺は全くの落ちこぼれだったからだ。シリウスが遊びの片手間に覚えるようなことさえも、頭に叩き込むのに数時間はかかるという始末。何度周囲の溜め息に恥じ入ったか知れない。たった一つしか違わないのに、シリウスと俺の差はなんと大きいことだろう。俺は兄を慕う一方、優秀すぎる彼の存在を内心疎んでいたのかもしれない。俺は一層勉学に打ち込み、両親の期待に副えるよう躍起になっていた。
 ――何も伯母さまの顔色ばかり窺う必要はないのよ。あなたの人生なのだから。重要なのは、あなたが何をしたいか。無理にシリウスの代わりになる必要はないの。
 母と正反対のことを言ったのは、従姉のアンドロメダだ。
 叔父達が家にくると、俺は彼女と一緒に過ごすことが多かった。というよりも、俺が彼女につきまとっていたと言った方が正しいか。穏やかな微笑と、穏やかな目。身動きするたびにふわりと漂う花の香りは優しく、うっとりとした気分に浸れた。俺のように年の離れている子供にも邪険にすることなく、一人の人間として接してくれていたアン。彼女が側にいてくれれば、手を握っていてくれれば何も怖いものなどないような気になれた。もう、そんな時は遥か彼方に去ってしまったけれど。彼女はマグル出身の男と駆け落ちし、ブラック家から永遠に名前を抹消された。

 アンがいなくなった頃から家にいることが苦痛になった。母とシリウスの仲は険悪になっていくばかりで、ついには家出までしてしまった。顔を突き合わせれば激しい言い争いをしていた母だったが、それがよほど身に堪えたらしい。塞ぎ込み、部屋にこもったまま数日を過ごすことも度々あった。当然だ。母のシリウスへの厳しさは愛情の裏返し。シリウスへの期待が大きかっただけに、彼に裏切られて憔悴したのだ。
 ある日、久々に母の顔を見た時、思わず息を呑んだ。髪も衣服も整えず、虚ろな目でそぞろ歩く母に生気はなく、まるで生ける屍のような姿に成り果てていたのだ。すぐさま癒者を呼んだが、精神的なものだという診断が下されただけで、具体的にどうすれば治るのか解決策を与えてはくれなかった。
 眠る母の横につきそっていると、時折うわごとのようにシリウスの名を呼んでいるのが分かった。
 母が寝込んでしまった旨を手紙で書き送ったが、シリウスは帰ってこなかった。返事すら寄こさなかった。シリウスは母を、ブラック家を捨てたのだ……そんな思いが心に渦を巻き、大きくなっていった。
 母がかわいそうでならなかった。あんなにもシリウスを愛してきたのに、あいつは母の想いを踏みにじってのうのうと生きている。
 許せないと思った。あいつにしかるべき報いを与えてやりたい。あいつに思い知らせてやるには、力が必要だ――何者にも負けない力が。
 死喰い人になる決意をしたのはちょうどその頃だ。【あの方】に忠誠を誓い、【闇の印】を受け入れれば飛躍的な力が手に入るとベラトリックスに勧められるままに。
 ベラトリックスはアンの姉とは思えない残忍な目をした女で、昔から好感は持っていなかったが、それでも【あの方】に取り次いでくれたのはありがたかった。彼女が【あの方】のお気に入りでなければ、おそらく【闇の印】を受け入れるまで……彼に信用されるようになるまでもっと時間がかかっただろうから。
 そう、その頃はまだありがたいと思っていたのだ。力を手に入れた喜びで、目が見えなくなっていた。軽はずみに受け入れた運命に、後々これほど苦しまされるようになるだなんて思ってもいなかった。

 【あの方】の思想は純血者のみの理想郷。古きよき血を守るためなら、少々の犠牲はやむをえないものとは覚悟してきた。何せ魔法使い達の混血が進むにつれて、スクイブの出生率が高まってきている。早い段階で歯止めをかけねば、いずれ魔法使いの血は絶えてしまうだろうから。俺にはシリウスのように「馬鹿馬鹿しい」という言葉で片づけられる問題ではないように思えたのだ。
 けれど、【あの方】はマグルも……貴重なはずの純血者も自分に歯向かう者なら容赦なく切り捨てていった。追放すればいいだけなのに、無益な殺生を繰り返す様に俺は疑問を抱くようになった。
 そして、ボーンズ家を襲った時に溝は決定的になった。不死鳥の騎士団員であったエドガー・ボーンズとその妻を殺した時に、仲間がまだ満足に目も開いていない赤ん坊を殺そうとした。なんのためらいもなく杖を向けた仲間に体当たりをし、なんとか押し留めると、そのまま赤ん坊を連れてその場を逃げだした。
 追っ手はその日のうちにかかった。仲間の追撃を逃れつつ、赤ん坊をボーンズ家の親類の家に送り届けた後は闇雲に逃げ続けた。
 馬鹿な真似をしたかもしれない。【あの方】に逆らって、殺されなかった者はいない。俺の行動がブラック家自体の裏切りと取られ、両親や親戚にまで累が及ぶかもしれないと思うと気が咎めた。けれど、なんの罪もない赤ん坊の命を奪ってつくる新世界など、絶対に理想郷ではない。そんな世界があっていいわけがない。
 俺が選び抜いた道は結局のところ、間違いだったということか。

「見つけたよ、レグルス」
 黒い髪をふわりとなびかせて、ベラトリックスが姿現わした。けばけばしい紅色の唇を歪めている。笑っているとはとても思えない、冷たい表情を張りつかせて。
「よくも私に恥をかかせてくれたね。【あの方】を裏切るなど……このままでは申し開きが立たない。一族の汚点は私自らが消し去ってやろう」
「俺一人の行動で申し開きが立たないなんて、お前も信用されていないんだな」
 ゆらりと杖を握った手が動いた。緑の閃光を横っ飛びにかわすと、ベラトリックスは舌打ちした。
「こざかしい! 逃げ足だけは一人前だ、坊や……認めてやろう、そこだけはシリウスに劣らない。あいつは敵を前に逃げたりなどはしないからね。
 お前を誘い入れたのが、そもそもの私のミスだった。お前のような役立たずを。シリウスの代わりに少しは役立つかと思ったが、お前ときたら!」
 頭の芯が痺れるようだった。シリウス…――そうか。あいつも死喰い人に誘われた。けど、それを蹴ったのだ。賢い兄。あいつには【あの方】の真の姿が見えていたのだろう。俺のように浅はかな、ほんのひとときの思いには惑わされずに。
 ベラトリックスは高らかに笑った。
「おや、坊や、その顔はなんだい? まさか、おまえ自身に興味を持って誘ったとでも思ったのかい? それは傑作だ! 私が欲したのは、そして【あの方】が欲したのはブラック家の傑作、シリウスさ。お前がどうあがいたところでシリウスの代わりにはなりえない」
「……そうだな、シリウスは俺みたいな馬鹿じゃないからな」
 シリウスが家を飛びだしていったのは何故か。今になって、ほんの少し分かった気がする。【ブラック家の傑作】――シリウスが皆から望まれていたのは、家のためだけの存在。望まれていたのは【ブラック家のシリウス】であって、シリウス本人ではなかったんだ。
 ――シリウスの代わりになる必要はないの。
 ああ、そうだな、アン。君が正しかった。皆に望まれる自分を演じる必要なんかなかった。皆に認められたって、本当の自分を殺し続けてちゃ意味がなかった。気づくのが、少し遅かったよ……。
 押し寄せてくる緑の閃光。そのまばゆいばかりの光の向こうに、なつかしいアンの姿が見えた。

(2006/01/11)