死ぬかもしれないと思ったけれど、どうしてだか怖くなかった。床の冷たさや硬さは段々遠のいて、まぶたの裏には光が見えて。きっと、この先にはあたたかな世界が広がっている――そんな予感がしたから。
「ごめんね、ジニー。君を傷つけるつもりじゃなかった……ただ僕にはこうする以外に道がなかったんだ」
風に揺れて鳴る鈴のようなささやきに飛びかけた意識が引き戻された。ジニーは誰の声だったろうと考えようとしたが、頭には霞がかかっているようで、どうしても思い出せなかった。確かに聞き覚えがあるはずなのに。
あなたはだれ? その問いかけは口に出ただろうか。【誰か】の声がもう一度耳に届いた。
「ねえ、ジニー。賭けをしようか。君の英雄と僕、どちらが勝つか。
僕が勝ったら、君は僕のもの。魂だけじゃなくて何もかも全てをもらうよ。でもね、万が一、ハリーが勝ったら…――」
小さかった声がもっと小さくなって、もう何も聞こえなかった。
*****
「……ニー、ジニー! しっかり、起きて!!」
身体がひどく揺れる。地震でも起きたのかと思って飛び起きると、目の前には今にも泣き出しそうなハリーの顔があった。
「ジニー、よかった……間に合ってよかった……」
かすれた声でそう言ったかと思うと、きつく抱きしめてくる。冷えた身体に彼のあたたかさが染み入るように広がっていく。ジニーは何がなんだかよく分からなくて、自由な目だけで辺りを見回した。
薄暗いところだった。高い高い天井の、洞窟を思わせる湿った陰気なところ。すぐ間近には信じられないほど大きな蛇――ピクリとも動かないし、床に大量の血が流れていることから死んでいるのだと分かる。
(死んでいる? 誰かが殺した…?)
ハリーが身体を離し、ジニーはようやく彼の姿をちゃんと見ることができた。
ローブは擦り切れてボロボロで、右手の袖口から大きく裂けていた。顔も手も、血と泥で汚れていて死闘の後を思わせる。そして手には見慣れたものが握られていた。黒い革表紙の日記帳。
思い出した途端、どっと涙があふれ出た。大好きだった【日記帳に住む友達】が自分を利用して、殺そうとしたこと。
意識を失う少し前に聞こえた声は彼のものだ。ずっと騙されていたというのに、皆をひどい目に遭わせた張本人なのに、それでもジニーは弱々しげな声で許しを請うた彼のことが憎めなかった。
泣きじゃくる理由を怖い目に遭ったせいだと思ったのだろう。ハリーが慰めるように手を撫でてくれる。その優しげな手つきが失ってしまった彼を思い出させて、ジニーの目から次々と涙がこぼれ落ちた。
怖かった、リドルがやらせたの、あたしに乗り移っていたの…――そんなことを口早に言う自分が別人のように感じられた。悲しくてたまらないのに、嘘をつかなければならないのがたまらなかった。
騙されて、殺されかけて……それでもリドルと触れ合って楽しかったのは事実。かけてもらった言葉があたたかかったのは本当のこと。愚かと罵られようと、それがジニーにとって真実だった。
けれど、そんな気持ちはきっと誰にも分からないだろうから嘘をついた。同情を引きたかったのではなく、ただそっとしてほしかったのだ。【闇の帝王】となる人を想うことなど許されるはずがない。もし今、皆に責め立てられたら、大好きだった人を失った痛みに悲鳴を上げている心が粉々になってしまいそうだった。
嗚咽の止まらない背を落ち着かせるように軽く叩いてくれたハリーに、そっと手を差し伸べられる。
「もう大丈夫だよ、全て終わってしまったから。帰ろう、ジニー」
その手をとって、ジニーは立ち上がった。頭がふらふらしてたまらなかったけれど、ハリーに引かれるまま一歩一歩進んでいく。
憧れのハリーと手を繋いで歩けるなんて、以前なら嬉しくて飛び上がっていただろう。だが、今ジニーの手が求めていたのは別のもの――ほしかったのはあの日記帳だけだった。ハリーのもう片方の手にしっかりと握られたそれを持たせてほしいなんて言えるはずがなかった。
ダンブルドアになら話してもいいかもしれない。校長なら少なくとも責めたりはしないだろう。リドルのことをよく話して、せめて彼の思い出に日記帳の残骸をもらえないか頼んでみよう。悲しみに暮れたまま、ジニーはそう思うことで心を慰めた。
残念ながらジニーの願いは叶わなかった。ジニーはその日すぐに医務室に送られてしまったし、事件のあらましを聞いて仰天したパーシーに数日間重病人のようにベッドに縛りつけられてしまったのだ。
ようやくダンブルドアを訪れた時すでにあの日記帳はなかった。元の持ち主に返されたのだと告げられて、ジニーにはどうすることもできなかった。絶望がありありと顔に浮かんでいたのだろう。ダンブルドアはひどく心配し、思いやりのある言葉をかけてくれたが、ジニーの耳にはまるで入ってこなかった。
幽霊みたいな足取りでふらふらと歩き回って、気づいた時には空き教室に入り込んでいた。蜘蛛の巣が張った教室のカビくさいニオイ、ヒビ入った黒板、端に高々と積まれた机。見覚えがあると思ったら、そこはパーシーがガールフレンドとキスしていた教室だった。
(慌てた二人の顔がおかしくて、笑いながらトムに話したっけ)
思い出すと、また目の前が潤みだした。しゃがんで、抱いた両膝に顔をうずめる。
「トム……寂しいよ……あたし、あなたとずっと一緒にいたかったのに」
ローブにどんどん染みが広がっていく。服を通して伝わってくる冷たさが余計心を寂しくさせる。この涙は一生止まらないように思えた。
ローブのポケットに手を突っ込んで、ハンカチを出そうとしたその時。まさぐった手が何かに触れた。厚い紙のような感触。
ハンカチと一緒に取り出すと、まずは目元を拭ってそれを見た。二つに畳まれた厚紙はクリーム色で、ほんの少しだけ端が黄ばんでいる。ドクン、と心臓が鳴ったのが分かった。コレには見覚えがあった。
まさか、こんなことがあるはずがない。そう思いつつも、震える手で押し開くと…――
T・M・リドルの文字が飛び込んできた。あの日記帳の最初のページ、五十年前に彼が書き残した唯一のものが。
「トム……」
ジニーの目から涙がこぼれ落ちて、染みをつけた。それはすぐに薄れていき、柔らかな光へと変わる。蛍のように優しい光は少しずつ外側に飛び出し、やがて人の姿を形づくっていく。
「これは夢…?」
嬉しくて、信じられなくて、そう口にした。目の前の光景が現実か、確かめようとして伸ばした手が空をかいた。やっぱり。
「夢なのね。それでもいい……まだ覚めなければ、それでいいの」
「夢じゃないよ、ジニー」
リドルはぼんやりとした光に滲んだ手を差し伸ばした。
「泣かないで……涙を拭ってあげたいけど、僕は君に触れられないから」
優しいテノールも少し寂しそうな笑顔も同じ。夢じゃない、の言葉にジニーは目元をこすって口元を震わせた。ぎこちない唇が少しずつ弧を描いていく。
「これは嬉し涙よ。また逢えた……」
「許してくれるの? あんなひどいことをしたのに」
「ううん、許さないわ。皆をひどい目に遭わせて、あたしを騙して……」
クスンと鼻をすすりながら言うと、リドルは笑いを洩らし、ジニーもつられて声を立てて笑った。
「許さないけど、嬉しいのはホントよ。でも、どうして? 死ん…、消えてしまったと思ったのに」
「英雄ハリー・ポッターは闇の帝王を打ち破った。勝者は君だよ、ジニー」
「勝者?」
オウム返しに訊くと、リドルは頷く。
「賭けをしたの、覚えてない? 僕は僕自身に、君はハリーの勝利に賭けたんだ。僕は自分が勝つのを信じて疑わなかったけど、奇蹟というものが起こらないとは限らない。だから、僕が敗れた時、完全な消滅を免れるために日記帳の切れ端を君に託したんだよ」
「あたしが勝ったって……じゃあ、トムは何をくれるの?」
夢うつつに聞いた彼の言葉を思い出す。聞き取れなかった最後の言葉はなんだったんだろう。
戸惑いの視線を受け、リドルは微笑む。
「君が勝ったら、僕は君のもの。君の望みを叶えてあげるよ。
言って、ジニー。君は僕に何を望む? 【ヴォルデモート卿】となる僕が怖い、憎いと思うなら君の手で消してくれたってかまわないよ」
「そんなこと望まないわ……!」
無我夢中で叫んだ瞬間、あんなに味わった恐怖も痛みもすっかりと抜け落ちていた。リドルが側にいれば、また皆を危険な目に遭わせるかもしれないというのに、ジニーの心を占めていたのはただ一つの思いだった。
「……あたし、あなたに側にいてほしいの」
「そんなことでいいの?」
意外そうにそう言うリドルにジニーは頷く。それ以上に望むことはなかった。彼は考え込むように顎に手を当てていたが、おもむろに口を開いた。
「ひどい目に遭わせた僕を信用するの? また君を騙すもしれない、この僕を?」
「騙さないわ。騙す気なら親切にそんなこと言わないでしょ?」
確信めいた言葉にリドルがたじろぐ。
「君って子は、まったく……肝が据わってるよ。さすがグリフィンドール生、と言うべきかな」
「それって最高の褒め言葉だわ」
にっこりと笑って言うと、リドルはやれやれと肩を竦めたが、やがて諦めたように右手を差し出した。
「改めてよろしくを言うよ、ジニー」
「ありがとう、トム。大好きよ」
「殺されかけた相手にそんなことを言えるなんて君くらいのものだよ」
皮肉めいた口ぶりなのに、それは何処か優しい。ジニーも右手を差し出し、触れられない彼のものに重ねる。決して伝わらぬはずのあたたかみが感じられたのはとても不思議な感覚だった。