夢路の果て - 3/3

 夢うつつを漂う意識の中。ベッドが微かにきしんだ音にジニーが目を開けると、腰を上げかけたリドルと目があった。眠気に緩んだ手に力が戻ると、彼は仕方ないといった風にまたベッドに腰かける。優しく髪を梳く手が額に伸びて、頬まで流れた。寝つけぬ子供をあやすようにゆっくりと指を弾かせる。トントンと単調なリズムを感じると安らいだ。
「まだ寝てなかったんだ」
「……ごめんなさい」
 謝ると、リドルは首を振る。
「いいんだ。まだ怖い?」
「……うん」
 普段は日記帳の切れ端で、二人だけの時は姿を見せて…――そして一日のうち、ベッドに入ってから眠りに就くまでのほんの僅かな間だけ、ジニーは彼とこうして触れ合っていた。ひんやりとした手が眠気を散らしてしまうと分かっていても、その手を求めずにいられなかった。
 もう夏休みまであと少し。こうしてリドルと過ごすことにも慣れてきたはずなのに、ジニーはまだ不安だった。今見ているのは楽しい夢で、目が覚めればリドルはいなくなっているかもしれない。何度そう思って眠りに就いたことだろう。
 彼が実体化できると分かってから、ジニーはこうして【お願い】するようになっていた。夜、眠る時に手を繋いでいてほしいと。彼の渋る顔を見たくなくて、事件が終わってから暗闇が怖いのだと訴えた。
 【秘密の部屋】で泣いたのはただ悲しかったからで、恐怖のせいじゃない。殺されかけたことだってそうだ。けれど、事件を…――というよりも、自分を傷つけたことを負い目に持っているリドルにそう言えば絶対に断られないと分かっていたから嘘をついた。
 罪悪感につけ込む時はいつもチクリと心が痛んだけれど、微かな痛みは共に過ごす時の楽しさで忘れてしまう。
 朝起きてすぐに切り取られた日記帳におはようと書き込み、返事をしてくれるのを待つ。彼の存在を確認してホッとすると同時に、今日こそは一人で眠ろうと決心する。なのに夜になればグラついて、結局はズルズルと彼に頼ってしまっていた。
 このままじゃいけないと思うのに、ジニーにはリドルの手が放せなかった。
 きつく握られたままの手に視線を落とした彼は何処か寂しげな表情をしている。うつむくと長い睫毛の影が瞳を覆うから余計にそう見えるのかもしれない。
「つらい目に遭わせてしまったね、本当にごめん」
「いいの…、トムは今もこうして手を握ってくれてる。その間は怖くないから」
 嘘をついて謝らせてばかりで申し訳ないと思う。それでも怖くないのは本当だった。繋いだ手の感触は、彼が確かに存在している証だったから。
「ねえ、ジニー」
「なあに?」
「君はまだハリーのことが好き?」
「なんで、そんなこと訊くの?」
 顔を覗き込むようにして唐突にそう訊くリドル。自分からハリーのことを話題に出すのは初めてだった。ジニーはまばたきして質問の意図をつかもうとする。けれど、リドルの顔からは何も読み取れなかった。
 紅茶色の目を見つめたまま、ジッと考えてみた。憧れていたハリー・ポッターのこと。好きかと問われれば頷くしかない。嫌う要素なんて一つもなかった。
 ロンの親友でクィディッチの名手。それに生きているかどうかも定かでない自分のために、危険を冒してまで【秘密の部屋】まで助けにきてくれた。優しく勇敢な人だ。【例のあの人】を倒したからだけではない。その身に稲妻形の傷跡がなかったところで、きっと輝く人だと思う。
「好き、よ」
だから、そう答えた。喉の奥から洩れた声はひどくかすれている気がした。
 満足のいく答えだったのか、リドルはにっこりと笑った。彼の笑みを見ていると何故か分からないけれど胸が痛くなって、ジニーはギュッと目を瞑った。目から熱い涙が噴きだしそうだった。
「きっといつか想いは届くよ。君はとても可愛くて、優しいから……でもね、泣いてばかりいちゃ駄目だよ。君には笑顔が一番似合うんだから」
「……うん」
 胸に湧き上がったのは淋しさだった。ジニーは言いようもなく淋しかった。
「さ、もう眠って。明日起きれなくなるよ」
「うん。ね、トム……あと少しで夏休みね。今年は家族皆でビルのところに行くの……エジプトってどんなところかな……? 一緒にいろんなところを見にいきましょ……すごく楽しみ」
「そうだね。僕も行ったことがないから楽しみだよ」
 不意に襲ってきた眠気に陥る寸前、ジニーは繋いだ手に力を込めた。
「ん…、これ以上ソバカスを増やさないように、しっかり帽子をかぶらなきゃ。おやすみ、トム……」
「おやすみ、ジニー……いい夢を」
優しい声を耳に受けて、ジニーはスッと寝入った。軽い寝息が響き、やがて深い眠りに落ちていく。

 リドルは一分一秒も惜しいというように、しばらくの間、まばたきもせずにジニーを見つめていた。あどけない顔立ちは安心しきっていて、繋いだ手を放すのがためらわれる。
 ふっと吐息をつき、目の前に空いた手を掲げた。青白い光を放つ手は透き通り、背景を浮かび上がらせていた。
「もう限界…、か」
 五十年前、リドルが日記帳に込めた魔力は無尽蔵ではない。このところ毎日のように実体化しては姿を見せるだけでなく、触れ合っていた。日記帳の中にひそんでいるだけでは消耗することもなかったが、ジニーの【お願い】を聞くほどに彼はこの世界に留まる力を失っていった。
 自分のためならば、そんな自殺行為はしなかっただろう。リドルは何よりジニーの側にいる――ただそのことだけを願っていたのだから。触れ合えなくても側にいられれば、それで満足だった。
 けれど、他ならぬジニーの望みだった。こうして温もりをくれる大事な少女を心ならずも傷つけてしまった償いをするため、自分の望みはあえて無視した。
 そして、とうとう【終わり】がやってきた。
 繋いだ手の付近にだけ最後の魔力を集中させると、他の箇所が薄れるスピードが増す。いまやリドルの身体はゴーストよりも透き通り、空気に溶けそうなほど弱々しい姿になっていた。
「僕のジニー……50年前の僕が君と同じ時間を過ごせたなら、もしかしたらヴォルデモート卿にはならずにいたかもしれないね。君の手はいつも僕をあたためてくれたから」
 それが最後の言葉となった。音もなく消えていく身体。ジニーと繋いだ片手だけが名残を惜しむように見えていたが、やがてそれさえも薄れていく。ジニーの手は、リドルの手を握ったそのままの形で取り残された。

 朝、ジニーは目を覚ますと、ここ最近の習慣に従って引きだしの上に置いた日記帳の切れ端を取りだした。ペンを持っておはようを書き込もうとした時、何か違和感を覚えたが、目覚めたばかりの頭ではそれがなんなのかまでは分からない。
『トム、おはよう』
 書き込まれた言葉は吸い込まれていかない。ただの紙に書き記した文字のように、変わらず紙面に浮かんでいた。
「……トム?」
 呼びかけてみたが、返事はない。ジニーの目は一気に覚めた。サッと血の気が引いて、今度はもう一度大きな声で呼びかけてみた。
 ジニー、どうしたの? そう答えたのはリドルではなく同室の友達だった。なんでもないの、と答えて手早く服に着替えた。信じられない、信じたくない。不安が堰を切ったように押し寄せる。
 日記帳の切れ端を持って、クィディッチ競技場の見える草原まで走った。はじめてリドルにキスされた場所だ。人のいない場所で咄嗟に思い浮かんだのはここしかなかった。
「トム……トム?」
 肩で息をしたまま、彼の名を繰り返し呼んだ。やはり返事はない。
「トム、ねえっ……からかってるんでしょ? ねえったら! 答えて、トムぅ……」
 ひっくひっくと嗚咽を上げて泣き出した。いつもなら慰めてくれる大きな手は何処からも現れない。
 力が抜けて、ジニーは地に座り込んだ。ポタポタと涙が頬を伝って、膝の上に置いた日記帳の切れ端へと落ちていく。涙で潤んだ視界を拭って、もう一度クリーム色の紙面に目を落とす。そして、あることに気づいた。
 T・M・リドルの文字が何処にもない。もちろん慣れ親しんだ日記帳の紙を間違えるはずがない。これは彼の日記帳だ。
「消え…、ちゃった……?」
 自分の名を記したことで魔力を閉じ込めていたリドル。魔力を使い果たし、彼の【記憶】が消えた瞬間、その名も消え失せてしまったのだった。ジニーにはそこまで分からなかったが、リドルにはもう二度と会えない。ただ、そのことだけは漠然と感じとれた。あふれでる涙を拭う力さえ失せてしまったかのよう。ジニーは抜け殻のように身じろぎ一つできなかった。
 その時、予期せぬ突風が吹き下ろし、ジニーの手から日記帳の切れ端を巻き上げた。
「い…、いやッ……!」
 ジニーは立ち上がろうとした。ただ一つ、リドルの思い出までが消えてしまう。追いかけなければならない。なのに、脱力した身体は思うように動かず、舞い上がった厚紙は遥か遠くに飛ばされてしまう。
 もう追いつけないほどに、遠く遠く…――
「トムっ、やだぁ……置いてかないで! 側にいてくれるって…、約束したじゃない……! 嘘つき、嘘つきィ……!!」
 握り締めた両手で地面を何度も叩いて、頭をうずめた。怒り、悲しんで騒ぎ立てれば、彼が再び還ってくるかもしれないと何処かで思っていたのだろう。叶うはずのない望みだと分かっていたのに。
 泣き疲れたジニーは草原に寝転がったまま、リドルとのことを思い出した。
 一緒にいろんなところを見にいきましょ――昨夜、ないはずの【明日】の約束をしていた自分達がひどく滑稽に思えた。そして、この草原でのこと。はじめてキスして、触れ合ったあの時。強力な呪いだよ。王子さまのキスでも解けやしない――そう彼は言った。
 確かにその通り。ハリーは【秘密の部屋】まで助けにきてくれた。けれど、心までは助けられなかった。今でもお姫さまの心は悪い魔法使いにとらわれたまま。きっとこの先も呪いが解けることはない。
 ハリーを好きかと訊かれた時に淋しかった理由はまさにそれだった。
 ハリーに対する【好き】とは違う。まぶしいほどの憧れでもって、ジニーはハリーに恋してた。けれど、リドルとはずっと一緒にいたいと…――多分彼女のような子供が使うと馬鹿げて聞こえるかもしれない。だが、ジニーは確かにリドルを愛していた。失ってしまってから、ようやくそう思い当たった。
「トム……トムもあたしのこと、少しは好きでいてくれた……?」
 泣いてばかりいちゃ駄目だよ。君には笑顔が一番似合うんだから――聞こえるはずのないリドルの声が、その時はっきりとジニーの耳に届いた。涙を拭って、もう一度耳を澄ます。けれど、もう二度と声は響かなかった。
 ジニーはふらつきながらも立ち上がり、空を仰いだ。
「ありがとう…、トム……もう泣いたりしないから。ちゃんと笑えるように頑張るから。でも…、あたし忘れない……トムのこと…、ずっと忘れないわ」
涙でぐしゃぐしゃになった顔に精一杯頑張って笑みを灯らせる。
 いなくなってしまったリドルのために、せめて彼の望んだ姿であり続けよう。ジニーはそう決意した。

(2004/06/21)