【秘密の部屋】の事件が解決してから数週間。グリフィンドール生、特にウィーズリー兄弟や事件の当事者となったハリー、ハーマイオニーなどはジニーの目覚しい回復ぶりに驚かされた。【例のあの人】にさらわれ、散々な目に遭ったというのに彼女の笑顔にはなんの翳りもない。皆、首をひねるばかりだったが、早く立ち直って悪いことはない。ここはあえて問いただすこともないだろうと、事件のことはそろって口をつぐんでいた。
ジニーにとってそれは実にありがたい反応だった。嘘がつけない性質の彼女は皆の詰問を何より恐れていた。もし何かのはずみで、実はリドルが完全に消えていなくて、まだ自分の側にいるとしゃべってしまったらどうなるだろう? 考えるまでもなく、彼は完全に消されてしまうに違いない。
ジニーはもう二度と彼を失いたくなかった。心にぽっかりと穴が空く奇妙な痛みを味わいたくはなかった。
その日も授業が終わると、こっそりと寮を抜け出した。向かう先はクィディッチ競技場だ。事件のせいで寮対抗試合はシーズン途中で中止されてしまったから、今はそちらにいく生徒もいない。オフシーズンでも普段なら練習熱心な選手達が数人はいただろうけれど、校長からの期末テスト免除というご褒美に皆が浮かれていた。
そよぐ風に揺れる草原が波のよう。キョトキョトと辺りを見回して誰もいないのを確かめると、ジニーはポケットから紙切れを取りだした。開いて、少しだけかすれた字を撫で、そっとささやく。
「トム」
大好きな友達の名を。
微かな蛍火と共にするりと抜け出てくるリドルに、ジニーは微笑んだ。
「とってもいい天気だから外に来てみたの。クィディッチ競技場よ、懐かしい?」
「ああ、まあ。懐かしいと言えば、懐かしい……かな」
指し示した方を見て、彼は頷いた。照りつける太陽光を反射して鈍色に光るゴール。まぶしいのか手をかざして競技場を見上げる彼の表情は固い。まるで具合でも悪いみたい、とジニーは思った。
こっち、と手招くとおとなしくついてくる。木陰に入ると、リドルは溜め息をついた。そのあまりに重々しい響きに首をかしげた。
「ねえ、トム? どうしたの? 具合でも悪いの?」
「いや、そんなことは」
「でも、真っ青よ。座って。休みましょ」
淡い光に包まれているから一層悪く見えるのだろうか。
リドルは何か言おうと口を開きかけたが、結局黙っていようと決めたらしい。おとなしく隣りに腰を下ろしたと思えば、ごろりと寝転がった。
半透明のその姿はゴーストよりも弱々しく、風が吹けば飛びそう、あるいは消えそうなほどに儚い。
彼の実体化は本来ジニーの魂を全て吸い取って、はじめて実現できるものだった。だが、それはハリー・ポッターに阻まれ、失敗に終わった。
どうやって人の形を保っているのだろう。不思議に思って訊いてみると、彼は五十年前【記憶】を日記帳の中に閉じ込めた際、いずれ引き起こす事件のためにある程度の魔力を一緒に送り込んでいたのだと教えてくれた。それはバジリスクや取り憑いた相手を操るための魔力だったが、事件が終わってしまった今となっては使うあてもない。そのため、こうして姿を見せるのに使っているのだと答えた。
文字だけでは去年のようにいくらでも騙すことができるが、互いの目と目を見ながら話すと何が嘘で真実なのか分かる。姿を現わすことで嘘をつかないという無言の宣言をしているようにも思えた。
もっとも、事件が終わって以来彼はあけすけな態度を取るようになって、甘く巧みな言葉の代わりに辛辣な物言いをすることも少なくなかった。ただ鋭い言葉がジニーに直接向けられることはなく、それは彼なりの贖罪であるのだと感じていた。
ただ、リドルは事件を起こしたこと自体は悔いていない。ハリーやマグルを話題に出した時の口ぶりから、それは明らかだった。そんな時、ジニーはリドルのことが少しだけ怖いと思う。紅茶色の目が獲物を狙う蛇のように細まると逃げだしたくなった。けれど大概彼は今のように穏やかな表情のまま、いろんなことを話してくれた。恐怖心は完全に消えてなくなりはしなかったけれど、それでも彼と一緒にいると楽しかったし、二人きりでいると居心地がよかった。
彼に対する気持ちはなんだろう。好きなのは確かだ。あれだけひどい目に遭わされた後も側にいてほしいと願ったほどに。じゃあ、恋? 浮かんだその言葉はあまりパッとしなかった。
(だってハリーを見ている時みたいに胸がドキドキしないもの)
寝転がるリドルの顔を見下ろし、ジッと見入った。
とてもきれいな顔だと思う。女みたいな、というわけじゃないけれど精巧な作り物みたいに整った顔立ち。目を瞑っていると、生きた人間といった感じがしない。実際【生きて】いるわけじゃないからそう思うのかもしれない。
ハリーを見る時だとこうはいかなかった。盗み見するのさえ恥ずかしくて幾度目を伏せたことだろう。
恋よりも自然な【好き】の感情――ジニーはそれをなんと名づけたらいいのか分からなかった。
向けられる視線の重みに気づいたのか、リドルは目を開け、微笑んだ。
「……大丈夫だよ。ただの立ちくらみさ」
「でも。ねえ、あたし何かできない? トムが心配なの……」
「放っといてくれれば、そのうち治るから」
シュンと肩を落とすと、彼は困ったように笑った。
「そうだな……じゃあ何か話してくれないかな? 気を紛らすような楽しい話」
「楽しい話」
ジニーは必死に頭を巡らせた。パッと浮かんだ学校での話は、ハリーや友達のことばかり。ハリーのことは自分を負かした相手として嫌っているはずだし、特に仲のいい友達はマグル出身者だった。どちらもリドルにとっては聞きたくない話だろう。
「眠り姫って知ってる?」
迷った挙句、思いついた言葉をそのまま口にした。
「眠り姫? マグルの童話の?」
「ママが眠る前に話してくれたの。悪い魔法使いに呪われて眠り続けるお姫さまのお話。その呪いを解いてくれるのは素敵な王子さまだって。大好きだったんだ、その童話」
小首を傾げたリドルの表情からは何も読み取れない。また、くだらない話しかできない子だと思われるのは怖かったけれど、口にしてしまった以上最後まで言い切らなければ失礼だと急いで先を続けた。
「子供の頃、あたしの王子さまはビルだったの。前に話したことあった? 一番上のお兄ちゃんのこと。格好よくて、優しくて、迷子にならないようにいつも手を握っててくれた……あったかい手が、とても安心できたの。どんな困ったことからも助けだしてくれて。お兄ちゃん達は皆それぞれに優しくて大好きだったんだけど、ビルは特別。
だから、お兄ちゃんとは結婚できないって知った時は悲しくて泣いちゃった。あたしの王子さまは何処にもいない。あたしはお姫さまになれないんだって…――今考えたらすごく馬鹿みたいだなって思うけど……子供の頃から夢見がちだったのね、あたしって」
リドルは身体を起こした。馬鹿にした笑いではなく、ベルベットを思わせる柔らかな笑み――見とれてしまうくらい、きれいな笑みを浮かべて。
「君はもうお姫さまになっているだろ? ハリーが王子さまで、僕が悪い魔法使い。【秘密の部屋】から王子が連れ出してくれた」
怒ったからこんなことを言いだしたのかと思ったが、どうやら違うらしい。紅茶色の目は変わらず穏やかだったし、チラチラ踊る木漏れ日の中で悪戯っぽく光っている。
「でも、悪い魔法使いはまだこうしているわ」
笑ってそう返すと、リドルは片手を伸ばしてきた。頬に触れるか、触れないかのところで動きを止め、
「そうだね。悪い魔法使いはお姫さまに呪いをかけて…――」
「えっ?」
ひやりと冷たさの次に、頬に柔らかな感触を感じた。黒い影が不意に近づく。身を退く間もないほど刹那の時の後、
「二度と自分の元から離れられないようにしてしまいました」
額に押し当てられた、もっと柔らかなもの。
ジニーはおそるおそる額に手を伸ばした。眉と眉の間、他の箇所より少しだけ冷たくなったところ。冷たさを意識した次の瞬間には燃え立つように熱くなる。
「トムっ? 今、触った……キス、した?」
「強力な呪いだよ。王子さまのキスでも解けやしない」
「ごまかさないで! ね、触れるの……?」
あたふたするのを尻目にまばたきもせずに返すリドル。もどかしさに声を荒げると、彼は頷いた。
「今だけ特別だよ。ここまで実体化すると魔力を極度に消耗してしまうから」
ジニーは何度かやりかけた手を思い切って伸ばした。リドルの青白い光はいつもよりも薄くなって、ぼやけた色が鮮明になっている。すり抜けるはずの手がしっかと彼に触れた瞬間、目から涙がこぼれ落ちた。
「なんだか……すごく嬉しい。ううん、今までだって嬉しかったんだけど……こうして手を握ると、トムがちゃんとここにいるんだって感じられるから。消えちゃわないんだって思えて……」
日記帳では浮かび上がる字だけ。こうして彼の姿と向き合ったことは何度かあったが、触れ合ったのは初めてだった。彼の手は血が通っていないからか、握っているだけで体温を奪っていく。なのに、ジニーはいつまでもその手を握っていたいと思った。自分の手よりもずっと大きなその手は安心感を与えてくれた。ちょうど幼い頃、ビルの手を求めていた頃のように。
大切な宝物のように両手でリドルの手を包み込む。すると彼は空いた方の片手でそっと目元を拭ってくれた。
「また嬉し涙? 泣いてばかりだね、ジニーは」
「うー…、だって……すごく、すっごく嬉しいんだもの」
恥ずかしさにパッと頬が染まる。すぐに自分でも涙を拭くと、彼はハハッと笑いを洩らした。その笑い方があまりに激しかったから、馬鹿にされているのかと口を尖らせる。
「ごめんごめん、僕も嬉しかったんだよ……でも、心配しないで。大丈夫、僕はちゃんとここにいるから。だから笑って、ね? 君の泣き顔も可愛くて好きだけど、笑顔が見たいんだ」
「トムったら! それって、恋人にかける言葉みたいよ」
クスと笑ってそう言うと、彼は不意に真顔になって、
「そう受け取ってくれてもかまわないよ」
さらりと言ってのける。
あまりに自然に発せられたその言葉の意味を呑み込むまで、ジニーには大分時間がかかった。