濃紺の空に散った幾百幾千もの白い粒が、大河のように輝いている。星のきれいな夜だった。湖を挟んで見えるホグワーツ城の窓以外に、人家の明かりが見えないためだろう。
なだらかな斜面には、二つの影があった。今や時の人となったハリー・ポッターと、ジニー・ウィーズリーだ。
「本当に、それでいいの?」
念を押すように訊くハリーの口調は、どうにか奇跡が起こって心変わりしてくれないかと願っているようだった。ジニーが頷くと、ハリーは苦々しげに顔を歪める。
「しつこいと思うけど、言わせてもらうよ。あいつはもういない……死んだんだよ? 死んだ奴をいつまでも想い続けて、それで幸せになれる? そりゃ……今はつらいかもしれないよ。でも、傷は癒えるよ、必ず……絶対に消えないって言われてた僕の額の傷だってなくなった。ほらっ」
クシャクシャの髪をかき上げたハリーの額には【選ばれし者】の痕は何処にもなかった。【闇の帝王】の呪いがこもった傷跡は、彼を倒すことで効力を失ったのか。
ヴォルデモート卿は、このホグワーツ城の近くで果てた。護りに長けたホグワーツ城を敵の根城にされれば圧倒的に不利になることは目に見えているのに、彼が何故そこを決戦の舞台に選んだのか。それは今となっては誰にも分からない。
飛び交う呪いと悲鳴。冷たく尖った空気をも弾き返すほどの熱気と激しさ。阿鼻叫喚の地獄をかいくぐり、ジニーはハリーと戦う【彼】を認めた。姿は違った。けれど、ジニーには一目でリドルだと分かった。
ハリーの放った魔法が彼めがけて飛んだ瞬間、ジニーは夢中で彼の身体に飛びかかっていた。指先が彼の身体に触れた途端、背中から血が噴きだした。背後から聞こえるハリーの声よりも、自分を抱きとめる腕の方を強く感じ取った。
――近づくな、ポッター……!! 近づけば、この娘の命はない!!
そう叫んだ彼が、耳元で当惑した声を洩らした。
――……どうして? ジニー、何故庇った? ヴォルデモートの望んだものは得られない……そして【僕】の望んだものも。一思いに死なせてくれればよかった……君のこんな姿を、見たくなかった。そう……言っただろ?
視界はぼやけていたけれど、あたたかな色が見えた。紅茶色の光が。リドルの目の色だとジニーには分かった。
あたし、言ってなかったよね? あたしもトムが好きだった。でも、ずっと一緒にいられない人だって分かってたから。好きになっても仕方ないからって気持ちを隠してた。自分でも、気づかないフリしてたの――血を吐きながらの言葉は、何処まで伝わっただろうか。はたりはたりと顔に落ちてくるあたたかなものを感じながら、ジニーは目を瞑った。苦しみはどんどん和らいでいた。
――いやだ。こんなのは認めない……ジニー、ジニー、死なないで……。
まるで子供のように取り乱していた。それが、かわいそうで何かをしてやりたかった。けれど、ジニーにはもう指一本動かすことはできなかった。
無意識のうちに何かをささやいた。その直後、ヴォルデモート卿の身体が崩れ去ったのだとハリーは言う。気を失ったジニーには、そこまでの記憶しか残っていなかったから分からない。ハリーの傷跡が消えた瞬間も、騎士団の皆が喜びの声を上げたのも、何も分からない。
目を覚ました時には、全てが終わっていた。再会した恋人を前にしても、以前の情熱は湧き起こらなかった。
静養するジニーを、ハリーはたびたび訪れた。けれど、ボロボロの日記帳を抱きしめたまま何も語らないジニーにかける言葉は思い浮かばないようだった。それでも半年以上も毎日欠かさず見舞いにきていたハリーに、ジニーは少しずつ打ち明けていった。リドルとのことを。【秘密の部屋】の真相を。
もう、これ以上一緒にいられないことが分かってしまった。
「トムがあたしに残した傷は一生治らないわ。治らなくていいの。トムと一緒に生きたいから……幸せになれなくていい。思い出を背負って、生きていくわ」
他の誰もトムの代わりにはなれないって気づいたから…――傷ついたハリーの顔を見て、ジニーは口をつぐんだ。彼はマントを翻して、足早に去っていった。
子供の頃から憧れてきた人だった。彼のように勇敢になりたいと、どんなに願ったことだろう。そうして、その彼が自分を振り返ってくれた時に感じた嬉しさは本当だった。それまでつきあっていた男の子達とは違うと思った。けれど、そうではなかった。別れた今なお感じる憧れに似た想いが、違うように思わせていただけ。
好きだったのはリドル。恋してきたのは、ずっとリドルだった。ただ自分の心を知らずに律してしまっていただけ。リドルの代わりに、彼に似た誰かを選んでいただけ。彼に似た面差しに、仕草に、声に惹かれてきただけだったのだ。その証拠にリドルを失ってから、ジニーの心にはどんな感情も甦らなかった。ハリーの後ろ姿を見ても、何も感じない。
ジニーは寝転がった。風もなく、虫の音も聞こえない。またたく星の音が聴こえてきそうなほどの静けさだ。目を瞑って、耳を澄ました。聞こえないものを聴き取るように。
「ジニー」
誰かが呼んだ。ハリーが戻ってきたのだろうか。ジニーは息を呑んだ。
「夢だわ……こんな…、都合のいいこと、あるはずないもの……」
寝転がったままの自分を覗き込んでいる少年は、紛れもなくリドルだった。サラサラとした彼の前髪が垂れかかり、額をくすぐる感触まである。なんて精巧な夢だろう、とジニーは思った。あの彼の周囲を取り巻いていた奇妙な青白い光の代わりに、肌が発する熱まで感じられる。
なんてひどい夢なんだろう! 覚めなければならないのに、こんな夢と現実の境目が分からないほどよくできた夢を見てしまうだなんて。
リドルの顔がさらに近づき、柔らかなものを感じた。唇を押さえて起き上がったジニーに、彼は優しく言う。
「夢なら触れられないよ。そうだろ?」
「夢じゃ、ない……? 本当に…、生きて? ここにいるの? どうして……」
リドルの身体が動いた瞬間、ジニーはローブをつかんでいた。けれど、彼に立ち去る意思はなかったらしい。ジニーの手を撫でると、隣りに腰を下ろした。
「そうだね……あの時。僕の命を捨ててでも、君を助けたいと思った……聖書に書かれていた【愛】という感情。それを言葉じゃなく、心で分かった瞬間、【ヴォルデモート卿】は死んだ。邪悪な魂は、砕け散った……そういうことなんだと思う」
リドル自身にも明確な答えは分からないのだろう。模索するように、ゆっくりとつぶやいた。
微笑むジニーの目は濡れていた。
「じゃあ、今ここに……あたしの目の前にいるのは、誰?」
「トム・リドル。つまらない名前以外に何も持たない、ただの魔法使いだよ」
「そのつまらない名前が、あたしは好きなの。偉大じゃなくたっていい……ただの魔法使いのあなたが、大好きなの……」
ジニーはひしとリドルに抱きついた。奇跡が起こった理由なんて、分からなくてもいい。夢でも幻でもなく、リドルが側にいてくれる。それだけで十分だった。
(2006/07/31)