赤と緑の閃光が飛び交う天井を見つめながら、ジニーは肩で息をしていた。荒々しい足音が地を伝って、耳にうるさい。一体自分はどうしたんだろうと起き上がろうとした途端、ひどい吐き気に襲われた。全身に汗が噴き上がる。かかとに強い熱を感じ、骨を砕かれたことを思い出した。
シリウスが魔法省で【あの人】に拷問されているのだと言い張るハリーと彼を助けにきたのだ。結局それは罠で彼の姿は何処にもなく、死喰い人が何人も待ちかまえていて窮地に立たされることになったのだが。
失神魔法で気絶させられてから、どれだけ経ったのだろう。足に負担をかけないよう、腕の力だけを使うようにして半身を起こした。すぐ側に、触手を身体に巻きつけながら足をジタバタさせているロンの姿が見えた。まだ正気は失っているようだったが、少なくとも窒息死はしなかったらしい。
ホッと胸を撫で下ろし、ハリーとネビルの姿を探した。少し離れたところにハーマイオニー、吹っ飛ばされたのかルーナは部屋の隅に置かれた机の向こう側に見えた。二人ともぐったりとして動かない。まさか死んでしまったのでは、という思いが脳裏をかすめ、ジニーは下半身を引きずりながら近づいていこうとした。
その時、不意に部屋の空気が凍りついた。少し離れたところで聞こえる音が、急に耳栓をされたように遠くなったのだ。ジニーは悪寒におののき、身体を縮めた。咄嗟に思ったのは吸魂鬼だった。魔法省側か、死喰い人側か――どっちにしたって敵に違いない。ジニーは握ったままになっていた杖を胸の位置まで持ってきて、虚空を睨みつけていた。
果たして空間に歪みが生じ、そこから【姿現わし】した者――みすぼらしい風体の男を見て、ジニーはハッと息を呑んだ。裾が擦り切れたボロボロのローブから覗く土気色の肌。落ち窪んだ目が囚人のような印象を与える。
けれど、ジニーが驚いたのは人間離れした蛇のような顔だった。ジニーが思わず杖を取り落とすと、男の視線がジニーとぶつかった。薄い口唇が引き攣ったように動き、ジニーは心臓を鷲づかみにされたような心地がした。
「ハリー・ポッターの仲間か」
ささやくような問いかけに、ジニーの手は取り落とした杖を探そうと床を泳いだ。けれど、どうしても見つからない。隙を見せればたちまち攻撃されそうで、目線を外すこともできない。
男は低い笑いを洩らし、歩み寄ってくる。ジニーの指先がようやく杖に触れた。勢いよくつかむと、ジニーは男に杖先を向けた。
「インペディメンタ……!」
男はニヤリと笑ったが、少しも足取りは緩まない。後退ろうとしたジニーは無意識のうちに力を込めてしまい、かかとからほとばしった痛みに呻き声を上げた。
男の手がそっと頬を撫でる。その体温の感じられない冷たい手に、ジニーは震え上がった。
「手負いでも、なお向かってこようとするところは気に入った。小娘、名はなんという?」
「……ジニー……ウィーズリー」
「ジニー・ウィーズリー……その名には聞き覚えがある。どうだ、小娘。俺様のことを知っているか?」
「……知らない。あなたのことなんて。見たことも、会ったこともない。放し、て……ぁ、ア!」
男の手が思いつきのように喉元を押さえつけた。その手を頭上に掲げるようにし、ジニーの身体は浮き上がった。つまさきまで完全に床を離れてしまい、手の力はさらに増したようだった。ちょうど喉の小高い丘を捕らえられ、息をすることもできない。張りついた喉から、悲鳴の欠片がこぼれたが、男は手の力を緩めるでもなく、不思議そうに目をまたたいた。
「何処で知ったのか……おかしなことだ。お前の顔にも見覚えがある。その苦しみに喘ぐ声も、聞き覚えがあるようだ。お前のことは知っている……だが、何故だ……?」
男はようやくジニーの首を絞めていることを思い出したのだろう。荷を降ろすように、無造作にジニーを投げだした。
したたかに打ちつけた膝の痛みよりも、胸の苦しさでジニーはむせび泣いた。人前で涙を流すことは久しかったが、恥ずかしいとか怖いとか思うよりも先に、涙があふれ出てとまらなかった。無様に四肢を投げだしたまま、荒い息をするだけで精一杯だった。
男は首根っこをつかむようにして、ジニーを起き上がらせた。額と額が触れあんばかりに顔を近づけ、覗き込んでくる。
ジニーは首を仰け反らせて少しでも男から遠ざかろうとしたが、後頭部をしっかりと押さえつけられていて、それはかなわなかった。黄色く汚れた歯からは鼻を突くニオイが漂ってくる。それは死臭に似ていた。
この男は墓場から甦ってきたアンデッドなのだろうか。生あるものの命を妬み、自らの力に還元するために屠る死者なのか? 手が汗ばんで滑る。ジニーは気づかれないように杖を握り直し、叫んだ。
「インセンディオッ!」
杖からほとばしった閃光が男の胸に当たったと同時に、ジニーは男から飛び退いた。一瞬遅れて巻き起こった炎の渦に、男の全身が呑み込まれる。男はしかし慌てることなく、平然と炎の中からジニーを見据えていた。よくよく見れば衣類も炎の中にはあるが、燃え上がってはいない。
男が杖を一振りすると、それはたちまちのうちに消え失せた。
「面白い小娘だ、ジニー・ウィーズリー。お前のように才知に長けた女は、そういない。殺すには惜しい……俺様のものになるがいい」
「なん、ですって……?」
「ハリー・ポッターのような馬鹿な小僧や、ダンブルドアのような老いぼれに尽くすよりも、この俺様にかしずいた方がお前のためだ。このヴォルデモート卿に」
ジニーは雷に打たれたように、動きをとめた。
「ヴォルデ、モート……? あなた……が? そんな」
ジニーの腕から、杖が落ちた。カラカラと転がっていくそれに目もくれず、ジニーは男に近づいていった。信じられない、と目を見開いたまま。男はそれを恭順の意と取ったのか、迎え入れるように腕を広げた。
「トム……」
呼びかけに、男の顔が訝しげに動いた。ジニーはあと二、三歩というところで男めがけて身体を投げだした。風に揺れるかかしのように、男の身体が一瞬揺れ動いた。
「会えた…、また【あなた】に会えた……」
「また、だと?」
男は激しく目をしばたたいた。かすんだまなこで真実を見出そうとするかのように。背伸びして、顔の形を確かめるように触っていくジニーにされるがままだった。
「あなたとは会っていない……けど、知ってる。あたしも。あなたの【過去】を、知ってたの」
遠い昔のようにも思える、一年生の頃の記憶だ。あの頃、引っ込み思案だったジニーにはただ一人悩みごとを打ち明けられる友達がいた――トム・リドル。
それは肉体を持たない友達だった。古びた日記帳の中に宿った【記憶】で、悩みごとを書き込めば、優しい返事をくれた。ジニーは【彼】を兄のように慕っていた。その盲目的な信頼はジニーの魂を吸い取り、少しずつ【記憶】に命を芽生えさせた。それこそが【彼】の狙いだったのだ。ジニーを犠牲にし、【記憶】から抜け出すことが。なぜなら、その【記憶】は【ヴォルデモート卿】の【過去】だったのだから。
「お前は…、あの日記帳を手に入れたのだな? だが、ならば何故……命を奪われていない? 俺様の【記憶】は、捕らえた者を逃がすようなことはしまい。お前の命を奪い、生あるものとしてこの世に君臨しているはず」
「トムは、あたしに生きろと……生きて、大好きな人と幸せになれって」
最初はただ利用するためだったのだろう。かけられた言葉が全て本当だったわけではない。気を惹くために言った数々の言葉の中には、嘘がたくさん潜んでいたように思う。それは否定できない。けれど、一握りの真実はあったはずだ。
「俺様の【過去】がそんなことを言うなど、ありえぬ」
「彼はあたしに生きる道を残してくれた……彼は、最期にあたしを愛していると言ってくれたの」
死を前にしたその言葉は、本当のはずだ…――縋るようにヴォルデモートを見上げると、彼は怒りのあまり、細長い鼻腔をふくらませていた。
「愛だと? くだらんことをさえずる。そのような嘘にこの俺様が騙されるものか」
「あたしも【あなた】が好きだった。いなくなって、分かったの。【あなた】がいなきゃ、笑えない。愛していたんだって、気づいたの……」
「黙れッ!!」
不意に突き飛ばされ、ジニーはよろめきながら後退った。
「トム、お願い! 思い出して……!!」
「うるさい! 愛などと…、そんな耳障りな言葉など聞きたくはない!!」
閃光がジニーの胸に突き当たると、彼女は後方へと飛んでいった。床の上に弾み、ぐったりと動かなくなった彼女を、ヴォルデモートは荒い息を吐きながら見下ろした。彼は痛みをこらえるように杖腕を押さえつけながら、ゆっくりと下ろしていった。
「……俺様が、愛した? 馬鹿な……そんなことが……」
ヴォルデモートは目元を覆い隠した。小うるさい少女の口をつぐもうと唱えたのは、死の呪いのはずだった。なのに、少女は生きている。杖先から飛んだのは、失神呪文の赤い閃光だった。
「……何故だ? 何故殺せぬ? この小娘を……ジニー・ウィーズリーを愛しているというのか、この俺様が」
つぶやき、ヴォルデモートはジニーを見下ろした。安らかな目元と、きれいな三日月眉が今にもぴくりと動きだしそうだ。
――トム、いつもありがと。大好きよ。
頭に響いてきた言葉に、ヴォルデモートは視線を外した。これ以上彼女を見ていると、おかしくなってしまいそうだった。遠くに意識を集中させ、目を瞑る。ベラと戦うハリー・ポッターの存在を感じ取ると、彼はその場から【姿くらまし】した。
(2006/05/04)