ハリーは足音を忍ばせて明かりのないキッチンに行くと、逆さにしたコップの山から一つをつかんだ。持ち上げた拍子に重なり合っていた部分が音を立て、手をとめる。探るように振り返り、暗闇の中に動く影がないのを確認するとフッと息を吐き、蛇口をひねった。細い水がにび色のパイプから滑り落ちる。しばらく水を出してから、コップの口を近づけた。
生ぬるい水は微かに苦く、鉄くさかった。顔をしかめ、二口、三口と続ける。喉の粘りはなくなったが、空っぽの胃の中に毒がじわじわと広がっていくような不快さが残った。
コップを置き、口元を拭ったハリーはニヤッと笑った。狭い廊下の向こうから、軽いイビキが聞こえてきたのだ。ヴォルデモートのホークラックスを探す旅に出てからの数ヶ月、彼はいつも救われる思いでいた。何故なら、この安眠妨害とも言えるイビキは、自分が一人ではないのだと教えてくれるからだ。
その時、ハリーは背後で床が軋む音を聞いた。振り返りざまに杖を抜き払うと、そこには目を見開いたハーマイオニーが立っていた。
「なんだ、びっくりしたよ……」
鳩時計が鳴った。見張りを交替する時間だったことに気づいて、ハリーは力なく笑った。
「びっくりしたのはこっちよ……! 死の呪いをかけそうな形相で杖を向けるなんて」
声を落としているが、ハーマイオニーが怒っているのはよく分かった。
「ごめん。死喰い人がきたのかと思って」
「気持ちは分かるけど……でも、私かロンが見張りに立っている時くらいはちゃんと休んで。昼間はホークラックス探し、夜も不寝番じゃあ肝心のヴォルデモートと戦えないわ」
「寝つけなくてさ……目が冴えてるんだ」
頭をかいて、ハリーはもごもごと言い訳した。
無力だった一年生の頃からヴォルデモートという恐ろしい魔法使いにつけ狙われていた。それでも安心して眠りに就けたのは、ダンブルドアという庇護者の下のあったからなのだと、ハリーは痛感していた。ホグワーツ城を出てからというもの微かな物音にも敏感に反応し、咄嗟に迎撃態勢をとってしまう。疲労がたまり、元から細かった身体の線が一層際立ってきたことに親友達が心配しているのは分かっていたが、もはやそれはクセのようなものになっていた。自分で意識しないものを変えるのはたやすくなかった。
「ちょうど起きちゃったし、次は僕が見張るよ。ロンもかなり疲れてるみたいだしね……君も疲れてるだろ。早く寝た方がいい。じゃ…、おやすみ」
ハーマイオニーの横をすり抜け、勝手口のドアを開けた。露の下りた空気はひんやりと冷たく、ローブからはみでた顔や手にまとわりついてくる。一瞬身震いした後、ハリーは思い切ったように外に出た。伸びた草は水分をはらみ、一歩足を踏みだすごとに足首を濡らす。杖先に明かりを灯したハリーは、閉めた勝手口がまたパタンと音を立てるのを聞いた。杖を向けるまでもなかった。
「つきあうわ、ハリー」
「いいよ。君の番は終わった。早く寝て。僕は一人で平気だから」
「つきあわせてほしいのよ……ハリー、お願い」
ジッと自分を見つめるハーマイオニーに、ハリーは溜め息をついた。ハーマイオニーは頑固だ。これ以上何か言ったところで、彼女が戻らないことは長いつきあいで分かっていた。それに寒空を見上げながら一人でいるのは心細いのも確かだ。
「いいよ」
壁に取りつけられたハシゴを上り、屋根に上がると、腰を下ろした。ハーマイオニーはハリーと背中合わせになるように座った。二人はしばらくの間、何も話さず、遠く揺れる木影を見ていた。今夜は月がない。ささやかな星々の輝きだけが、地上の道しるべになっている。
今日の宿に選んだこの家はその昔、ヴォルデモートの襲撃を受けたマッキノン家のものだった。自分達一族が狙われているのを知ってか、当主は本邸を捨て、人里離れた土地にちっぽけに家を建てた。純血貴族のマッキノンが、まさかこんなほったて小屋に身を隠していたとは…――当時の彼らを知る人は、そう洩らしたという。だが、そんな努力も虚しく、彼らは友人トラバースの裏切りに遭い、滅びた。
「静かね」
ハーマイオニーがささやいた。
「こうしてここにいると、魔法界で何か起こっているなんて思えない。
覚えてる、ハリー? 私達がまだ一年生だった頃……天文学の塔に上ったわね? ハグリッドが、ドラゴンの卵を孵らせた時のことよ」
「ああ、覚えてるよ。そういえば、あの時も僕達二人だったね」
「そうそう! ロンはノーバートに手を噛まれて、医務室にいたのよ」
「マルフォイがしつこく僕らを追い回していたっけ……僕らから減点させようとして、マクゴナガルにチクッたんだよ。でも、結局あいつも減点される羽目になって、皆仲よく禁じられた森送りになったんだ!」
マルフォイと聞いた途端、ハーマイオニーの目が微かにかげった。けれど、後ろを向いているハリーはそんな彼女に気づかなかった。
「なんだかなつかしいね……あれからもう何百年も経ってしまったみたいだ」
「そうね…、あの頃は毎日が楽しかった。そりゃ、大変なこともあったわ……トロールに襲われたり、三頭犬に食べられそうになったり、それにあなたはヴォルデモートとも戦った。そして、あいつの野望を打ち砕いていった。クィレルも、バジリスクと日記帳の【記憶】、シリウスのことも」
ハッとしたようにハーマイオニーは口をつぐんだ。
ハリーは喉を押さえた。シリウスの名前を聞くと、まだ心が痛んだ。
「……いつからだろうね。ホグワーツでの楽しい暮らしに、影が広がってきたのは。セドリック、シリウス、ダンブルドア……父さんと母さんだけじゃない。僕のせいで、大切な人が次々に死んでいく」
ハリーは額に手をやった。深く刻まれた傷をなぞり、唇を噛んだ。
「だから、ジニーと別れたのね……」
ジニー。ハリーは目を瞑った。まぶたの裏に、ふさふさとした赤毛の少女の姿が浮かび上がる。
ユーモアたっぷりの辛口で、いつも周りを笑わせていた。かといって、弱い立場の人を庇うことも忘れず、スリザリンの連中とも五分以上に渡り合っていた。燃えるような強い意思を秘めた目で、別れを切りだした自分を見据えた。
ハリーはいつからジニー・ウィーズリーのことを好きになったのか分からなかった。ロンの妹であり、自分を慕ってくれる少女のことをハリーは恋愛感情を持って見たことはなかった。風に運ばれた種が、知らぬ間に根づき、花を咲かせた…――そんな風だった。
けれど、もう随分と彼女のことを思い出すことはなかった。いや、意図的に思い出すまいとしていたのかもしれない。明日死ぬかもしれない危機感に蝕まれている中で彼女のことを思いだせば、もう一度会いたい。言葉を交わしたいと思ってしまうことに気づいていたからだ。
「ねえ、ハリー。今さらこんなことを言っても遅いかもしれないけど、ジニーはあなたについてきたかったと思うわ」
「でも、ジニーは分かってくれたよ。僕の気持ちを話したら」
ハーマイオニーの髪が、ふわりと頬を撫でた。彼女はハリーの方に顔を向け、邪魔くさそうに髪をかき上げた。
「ジニーはね…、前にも置いていかれたことがあるの……とても、大事な人にね」
「大事な人? 誰……マイケル・コーナー? ディーン?」
ジニーがつきあっていた恋人達を思うと、過去のこととはいえ嫉妬心がムラムラと湧き上がってくる。けれど、ハーマイオニーは素っ気なく首を振った。
「私、ジニーがその人の後を追って死ぬんじゃないかって思ったわ。放心したみたいにいろんなところをうろつき回って、目を離したら怖いことが起こりそうで。きっと今でも傷跡が残ってると思う」
「誰なんだよ、ハーマイオニー? ジニーはまだ他にも誰かとつきあってことかい?」
そんな風に想った誰かが、ジニーにはいた――ハリーは言いようもなく苦しかった。ジニーは他の誰とつきあっていても、自分のことを想い続けていたと言ったはずなのに。あの言葉は嘘だったのか?
ハーマイオニーはふっと目を伏せた。
「ジニーと私の秘密だから、言えないわ。でも、ハリー、あなたには知っておいてほしかったの。ジニーの傷を……もう一度、それを抉るような真似、あなたはしないわね? ちゃんと生きて、ジニーのところに戻ってあげるわよね?」
「ハーマイオニー……?」
震える彼女の声に、ハリーは驚いた。見れば、ハーマイオニーの頬は濡れていた。泣いているのだ。
「……置き去りにされるのは、つらいわ。私もそれを知ってる。あなたもでしょ?」
ハーマイオニーが昔、ドラコ・マルフォイと親しくしていたことをハリーは知らない。彼が【闇の印】を受け入れ、死喰い人に下った時にどれだけの衝撃を受けたのかも。ヴォルデモートの【記憶】を愛し、失った時のジニーを自分に重ね合わせて泣くハーマイオニーの顔は苦悶に歪んでいた。見たこともない親友の一面に、ただハリーはうろたえるしかなかった。
(2007/07/15)