愛とは命を与えること

「これで……終わりだ……」
 満身創痍のハリーが声を震わせる。赤ん坊の頃からつきまとっていた宿命からようやく逃れられることへの喜びのためだろうか。疲れの色濃く残った顔が、僅かに綻びた。
 ジニーはそんな恋人から、彼の杖が向けられた先を見つめる。ボロボロのローブが風になびいているものの、その中身はピクリとも動かない。飛べない鴉のようだ、と思った。傷ついた羽を曲げたまま、ジッとうずくまって死を待つことしかできない哀れな鴉。
(哀れな……?)
 ジニーは不意に浮かんだ感情を否定しようとした。哀れんでいいはずがない。目の前にいるのは殺人者だ。数え切れないほどの人の命を屠って生きてきた人なのだ。恐怖に命乞いをしようとも無碍に殺してきただろう男を、【例のあの人】をかわいそうだなんて。
 ハリーの口が呪いの言葉が紡ごうとする。
「駄目! やめて、ハリー……!!」
 ジニーは反射的に地を蹴り、男とハリーの間に滑り込んで叫んでいた。杖先から発せられる光線がジニーの髪をかすめて、後方に流れていった。すんでのところでハリーが腕を振り上げ、逸らしてくれたらしい。ハリーの顔には当惑と、微かな怒りが浮かんでいる。
「危ないじゃないか! 早くそいつから離れろッ! 何やってるんだよ、ジニー!?」
 ジニーは怒声に身をすくめたが、避けなかった。ヴォルデモートを背で庇うように、ジリジリと後ずさっていく。
「ハリー……怒りに任せて、この人を殺しちゃ駄目。それじゃ、この人とおんなじ……殺人だわ」
「そいつを生かしておけば、僕が死ぬ! 殺される!!」
「それはあくまで予言だわ! それが必ずしも当たるなんて限らないッ」
 今にも泣きそうな声で言い返した。何を言ってるんだろう。滅茶苦茶なことを言っていると自分でも思う。
 ハリーが両親や名づけ親、友人を殺したヴォルデモートを憎く思うのは当然だ。予言を重視するヴォルデモートの執拗な追討を逃れるためには、彼を殺すしかないことだって分かっている。
 なのに、今さらどうしてとめようとするのだろう? 自分を安全圏に置き去りにして、立ち向かおうとするハリーを追った時、決心したはずだった。身を挺してでも、ハリーの命を守りたいと。好きな人を死なせたくないと。
 命を投げだす相手が違う。どうして?
 いまやジニーは守るべきハリーに、いつでも呪いをかけられるように杖をかまえていた。動けば、容赦しない。ジニーの覚悟が伝わったのか、ハリーは身じろぎせずにジニーを睨みつけていた。その烈しい形相にジニーはたじろいだ。今にも呪いが自分に発せられても、おかしくはない。渇いた喉を潤すために、唾を呑んだ。張りついた喉は、少しもよくはならなかったが。
「あたしを殺す……?」
 ハリーがハッと息を呑むのを感じた。杖はかまえたままだったが、首を振ったハリーの表情はガラリと変わった。怒りではなく、悲しみが前面に押しだされた。
「いや……例え操られているにしても、僕は……君には手をだせない。分かっているだろう。どうして……? 何故なんだ、ジニー?」
「あたしは」
 言いかけたジニーの視界に、死喰い人を倒しながら駆け寄ってくるのはロンとハーマイオニーの姿が目に入った。二人とも、何か叫んでいるようだった。一体何を…――ジニーがそちらに顔を向けた瞬間、ハリーの悲痛な声が耳に入った。
「ジニーッ……!!」
 一瞬何が起こったのか分からなかった。首が締めつけられ、身体が浮き上がる。分かったのは、たったこれだけだった。両手足を振り回してあがいたが、苦しみは薄れるどころか、ますます強まるばかり。
「ジニーを放せッ、彼女は関係ない!!」
 背後で誰かがせせら笑うのを感じた。誰か、なんて分かりきっている――ヴォルデモート。
 ジニーは震える手で、なんとか杖を振ろうとした。けれど、あまりに苦しくて指先を動かすこともままならない。力が緩み、杖が手からこぼれ落ちたのを感じた。ハリーかロンが何かを叫んだ気がしたが、耳から耳へとうるさい金属音が駆けていき、よくは分からない。
 視界が歪み、暗い穴の中に吸い込まれていくような感覚が身体を襲った。死ぬんだ、とぼんやりとした意識の中で思った。
 死を間近に感じたのは二度目だった。一度目は【秘密の部屋】の冷たい床の上で。魂を吸い尽くされて、抜け殻のように地面に横たわっていた。自分の身体が物になっていく感覚と、包み込むような暗闇が怖くてたまらなかった。自由になったのは、涙だけ。二重にも三重にもなった視界のせいで、すぐ近くにいた男の人さえも見えなかった。
 ――泣かないで、ジニー。
 優しい声で、そう言った彼。
 ――大丈夫。怖いことなんて何一つ起こっていない。これは夢……悪い夢なんだ。大丈夫だから。君の騎士は、じきに君を助けにくる。だから、泣かないで。君の涙は見たくない。
(トムッ……!!)
 押さえつけていた力がなくなった。喉が通る。息が、できる。息を吸い込んだのと同時に、詰まっていた呼気がでていこうとし、激しい咳がでた。地面に倒れ伏したまま、むせぶジニーの耳に、冷ややかな声が降ってきた。
「……ご苦労、小娘。お前の愚かな行動が、俺様の命を救った」
 【姿くらまし】たのだ。あの戦いの場からはそう離れていない。遠くホグワーツ城が見えるから、間違いない。
「お前にはもう少しばかり役立ってもらおう。お前がいれば、ポッターは俺様に手だしできぬ……」
 頬を撫でてくる手は、死人のそれのようだった。体温がほとんどなく、乾いている。ジニーの目から涙が滑り落ちた。それは苦しみのためでも、恐怖のためでもなかった。ヴォルデモートの手に手を重ね、強く押し当てる。
「もう…、終わりにできない……?」
「何を」
「あなたが追わなければ、ハリーも追わない……予言に縛られて殺し合いをするなんて」
「ポッターの死が恐ろしいか」
 ヴォルデモートは嘲ったが、ジニーの手を振り払いはしなかった。探るようにジニーの目を見つめてくる。
「あたしは、あなたの死を見るのも怖い……怖かったの。だから、とめてしまった。覚悟…、してたはずだったのに……」
「お前の縁者を殺したのが、この俺様でもか」
 ジニーは頷いた。自分が生まれる前に母親の兄弟達が。ハリーの両親やシリウス、友達とその家族が死んだのはこの男のせいだ。直接手を下した人数は少数にしろ、この男のせいで人生を狂わされた人がどれだけいただろう。
 それでも、死を望めない。どうして?
「あたし、あなたが好きだったの……」
 訝しげな顔をするヴォルデモートに、ジニーは笑った。馬鹿げた告白だ。自分でもそう思う。
「日記帳に残された【記憶のあなた】……トムはあたしを利用して【秘密の部屋】を開いて、バジリスクを操った。たくさんの生徒が犠牲になったわ……」
「お前が例の小娘だったのか。ルシウスから聞いていた。【過去】の俺様の企ては失敗に終わったのだと」
「失敗に終わったんじゃない。失敗に終わらせたのよ。あなたが」
 全ては完璧だった。マグル出身の生徒達を襲い、ホグワーツを不安に陥れ、ハリーへの疑いを煽る。闇の陣営にとって邪魔なダンブルドアとアーサーを退け、自分の【未来】を挫いたハリーを【秘密の部屋】におびき寄せて始末する。最後にジニーを殺して、ヴォルデモート卿としてこの世に甦る。復活間近だったリドルにとって、二年生のハリーを殺すことなど赤子の手をひねるようなものだったはずなのに。
「あたしを生かすために、トムが終わらせてくれた……」
 君のことが好きだよ、ジニー。君と出会えてよかった。妹ができたみたいで嬉しいよ…――リドルにかけられた言葉の一つ一つが嘘だと思った。彼にとってはなんの意味もない空虚な言葉を大事に思ってきたのが悲しかった。
 けれど、最後の言葉は。全てを知った後、死にかけた子供を騙す必要性なんか何処にもない。なのに、リドルは優しかったのだ。慰めの言葉は、日記帳に浮かび上がってきた文字よりもずっと優しかった。
 きっと全てが嘘だったわけじゃない。
「くだらんことをさえずる。この俺様が、お前のような小娘に情を移すわけがない……助かりたいと思ってデタラメを言うな!」
 不意に肩を突かれて、ジニーは仰向けに倒れた。怒りに鼻腔をふくらませたヴォルデモートが、半ば馬乗りになり、胸元に杖を突きつけてきた。殺されるとは思ったが、ただそれだけだった。恐怖心が麻痺しているようだ。震えもしなければ、涙もにじんでこない。心は静かだった。
 目を瞑り、緑の閃光を待った。けれど、衝撃はこない。
 はたりと冷たいものが頬に落ちた。血走ったヴォルデモートの目が濡れ光っている。彼は杖を投げ捨てた。カランという音が遠ざかっていく。ヴォルデモートの口が弱々しく動いた。が、声にはならなかった。砂袋のように重たい身体がのしかかってくる。ジニーはああ、と声を洩らした。
「ジニー! 無事かッ……!?」
 ハリーの声は耳に入ってきたが、答えられなかった。ジニーはヴォルデモートの身体をきつく抱きしめた。もはやなんの反応も示さない硬く骨ばった身体を。