愛を知らぬもの

 床に倒れ伏したまま、彼女は動かなかった。ここに連れてきてやってから数時間は経つはずだが、一向に目覚める気配がない。石化した身体にすぐさまバジリスクの牙から調合した解毒剤を注ぎ込んでやったが、うまく作用しなかったのか。肌の色合いは灰色から少しずつ赤みを取り戻し、コチコチだった髪も床に広がってはいたが、一体いつになったら目を覚ますのやら。
 僕の【未来】を倒したというハリー・ポッターの親友、ハーマイオニー・グレンジャー。ジニーの口ぶりでは、どうもハリー・ポッターはこの娘に惚れているらしい。僕の洋々とした【未来】を妨げた奴を消すことは決めていたが、バジリスクや死の呪いであっさりと殺してしまうのではあまりに味気ない。僕の【未来】を挫いてくれたのだから、それ相応の代償は払わせてやろう。絶望に打ちひしがれ、一人みじめに死んでいく様を見れば溜飲も下がるだろう…――好きな少女が目の前で殺されたら、彼はどんな表情をするか。
 それにしても、ハリー・ポッターはこの娘の何処が気に入ったのか。【穢れた血】の上に、取り立てて人目を惹く容姿というわけでもない。ボサボサの髪は箒でかき集めたみたいだし、太い眉は少しも手入れをしていないに違いない。
 ハーマイオニーはとっても可愛くって、明るくって、ハキハキしてて……あたしとは大違い。とっても魅力的な人なの――よくジニーはこんなことを言っていたが、公平な目で見て、容姿の点ではジニーの方が上だ。あの自信のなさそうなおどおどとした態度が、あの子をどうしようもなくつまらない子に見せていたけれど。
 それでもジニーに感謝はしている。あの子のおかげでハリー・ポッターと、今の魔法界の状況を知ることができたし、そしてこの身体。青白い蛍火さえ漂っていなければ、生身の身体と変わりはない。こうして実体化できるようになったのも、彼女の魂を取り入れていったからだ。
 そう、この僕が【ヴォルデモート卿】としてこの世に君臨することができるのは、ジニーのおかげだ。
 グレンジャーの隣りに寝かせたジニーは蝋のように白く、鼻のてっぺんに散ったソバカスが異様なほどに目立っている。首筋に触れるとあたたかみはなく、脈もかなり弱まっていた。もう命が尽きかけているのだろう。

 愚かなジニー。君と共にすごした数ヶ月ほど馬鹿馬鹿しく、楽しい日はなかったよ。騙されていることに少しも気づかずに、得体の知れないモノを信じきっていたジニー。
 君の奉仕に報いるためにも、君の恋敵は八つ裂きにしてあげる。憧れていたなんて言って、愛しのハリーの心をやすやすと捕らえたグレンジャーを羨んでいただろう? 憎んでいただろう? 純血であどけなかった君の心にも目も当てられないような醜いものがあると知った時は、たまらなく興奮した。そして、その暗い想いが僕をこんなにも早く現世へと甦らせてくれたんだ。

 うっ、と押し殺した声が耳に入った。ジニーではない。もはや虫の息の彼女には、声をだすことなどできない。肩越しに振り返ると、かぶりを振って、ハーマイオニー・グレンジャーが起き上がるところだった。頭をかきむしりながら、床に手をつく。立ち上がろうと力を込めた瞬間、関節が鳴り、彼女は横倒れになった。
 まったく無様だ。【穢れた血】に相応しい、みすぼらしい姿だ。
 僕の笑い声に気づいたのか、グレンジャーは憤然と顔を上げた。燃えるような目が、当惑したようにまたたいた。
「誰、あなたは? ……ジニー? ジニーッ!?」
 僕の後ろに横たわっているジニーに気づき、グレンジャーは彼女の身体に取り縋った。ぐったりとした彼女になんとか活を入れようと、あちこちを叩いては叫んでいる。
「その子はもう目を覚ましやしないさ。それよりも、もっと自分自身を気遣ったらどうだい?」
 僕の存在をようやく思いだしたのか、グレンジャーはバッと振り返った。床に座ったまま、ジニーを背で庇うように杖を取りだした。
「誰よ、あなた……誰なの!? ジニーに何したのッ!?」
「答えは君にもうっすらと分かってるんじゃないかい、【穢れた血】のミス・グレンジャー……君が気絶する前に見たのは、なんだった?」
 グレンジャーはハッとしたように握り締めたままの拳を見た。古びた紙切れが指の合間から覗いている。
「バジリスク……じゃあ、じゃあ……あなたが【スリザリンの継承者】……ジニーをこんな風にしたのも?」
「彼女がそうなったのは僕に心を開いたからだよ。ジニーは学校に入りたてで、友達もいなくて、ずっと悩んでいた。この子はひどく内気でね……ハリー・ポッターのことが好きでたまらなかったが、それを打ち明けることもできなかった。君も知っているだろう? ただ言葉を交わすだけで真っ赤になって、口ごもっていたのを。そして、その大好きなハリーの側にはいつも君がいた。ジニーはたまらなくつらかった。その想いの捌け口に、僕を利用したんだよ」
「……どういう、こと?」
「君が気づいていたかどうかは知らないが、ジニーが片時も離さないくらい大事にしていた日記帳があったんだ。その中には僕の……ヴォルデモート卿の【過去の記憶】が潜んでいた。ジニーが思いのたけをぶちまけることで、僕は彼女の魂を奪っていった。少しずつ、着実にね。そうしてジニーと魂を共有することで、彼女を操り、事件を引き起こしていった」
 ヴォルデモート卿の名に怯んだと思ったのも束の間、グレンジャーは叫んだ。怒りが恐怖を凌駕したらしい。
「なんてことを! ジニーに、そんな……こんな小さな子に、そんなことを……!?」
「僕の記憶に間違いがなければ、君もそうジニーと変わらない年頃だろう。
 さて、グレンジャー。そろそろハリー・ポッターがくる時間だ。彼との劇的な【再会】を果たすために、君には少し黙っていてもらいたい」
「なっ……!」
 グレンジャーはジタバタとあがいたが、【穢れた血】如きが僕の魔力に抗えるはずがない。周りに透明な球をつくりだし、檻のようにその中に入れてしまうと、声が遮られる。もっとも聞こえないのは球の中の声だけだ。彼女の方には、依然として僕の声が届いているはずだ。そして、これからのハリー・ポッターとの会話も。浮遊魔法で邪魔にならないよう宙に上げると、グレンジャーは両の拳をぶつけて、なんとか見えない檻を破ろうとした。その姿に苦笑を禁じえなかった。マグルも、【穢れた血】もかくも愚かなものだ。魔法を力で打ち破ろうとするなどと…――

「ジニーッ……!!」

 叫びと同時に、ガラスが割れるような派手な音がこだました。馬鹿な。ホコリと舞い上げ、床に降り立ったグレンジャーも信じられないといった様子で自分の足を見た。それも一瞬で、彼女は僕に杖を向け、叫んだ。
「レダクトッ!!」
 閃光は僕には届かず、床に突き当たった。いや、最初から床を狙っていたのか。派手な音を立てて、石が割れ、辺りに飛び散った。その一瞬の隙を突いて、彼女はありったけの呪いを浴びせてきた。そのほとんどが効力もなく、杖も光りはしなかった。呪いの大部分は上級生になってから習うもの。さっきの粉々呪文が繰りだせたのは、火事場の馬鹿力といったところなのだろう。
 知りうる限りの呪いを叫びながら、グレンジャーはジニーの側まで後退っていった。そして、後ろ手にジニーの手をまさぐる。連れて逃げようとでもいうのか、手首をしっかと握り締めた。
「この期に及んで、まだ他人の心配か。ジニーといい、君といい、全く理解しがたい行動ばかりだ。自分の身に危険が差し迫っている時に、何故逃げない?」
 ジニーもそうだった。自分以外の誰かが犠牲になろうと、どうだっていいじゃないか。ハリー・ポッターから日記帳を取り戻しさえしなければ、死ぬのはあいつだけだったのに。
 理解できない。馬鹿げている。愚かな奴ら…――

「友達を見捨ててまで生き残ろうなんて思わないわっ」
 グレンジャーが鋭く叫んだ。
「人間の情が理解できないなんて、自分以外に大事なもののない、かわいそうな人ね……!」
 グレンジャーが急に仰け反るように倒れた。赤い閃光のほとばしった右手と彼女とを見比べて、無意識のうちに失神魔法を使っていたのだと知った。
 まったく身の程をわきまえない女だ。このヴォルデモート卿に、かわいそう、などと……【穢れた血】が、この僕を哀れんだ? 馬鹿な!
 胃の奥がたぎるように熱かった。ヴォルデモート卿に対した者は、絶対的な恐怖に打ちのめされ、命乞いをすべきだ。床に頭をこすりつけ、小ウサギのようにブルブルと震えていればいいものを、この女は。舌打ちが洩れた。何故【穢れた血】如きに僕の魔法が破られたんだ? 全てが思い通りに進まない。イライラする。
 まあ、いい。ハリー・ポッターがくれば、全てが終わる。それもあと少しだ。
 【秘密の部屋】の石扉が微かに音を立てている。近づいてくる足音に耳を澄ましながら、ゆっくりと振り返った。

(2006/06/04)