囚われの姫君 - 5/7

(……あれから、どのくらい経ったの?)
 【日記帳の中】では時間の流れはいまいちよく分からない。何せ昼も夜もない、無音の暗闇の世界なのだから。
 時間の感覚はなかったけれど、最後にリドルと話してからもう随分と経った気がする。こんなに長いこと話しかけられなかったのは、はじめてだ。そろそろリドルの【声】が聞こえる頃だろうとずっと耳を澄ましていたけれど、いまだ静寂を破るものは何もない。
(どうして……?)
 段々と心が焦りを覚え始める。何故彼の【声】が聞こえないんだろう。何故。
 焦りは次第に不安へと転化する。最後に話した時、彼はなんと言った? 激しい戦いになる。命を落とすかもしれないと…――そう言わなかったか?
 死んでしまえばいいと思った。でも、本当に死んでしまうなんて思いもしなかった。
「――…リドル?」
 ジニーはおそるおそる問いかけてみた。彼を拒絶してから、はじめて発した言葉。けれど、返事はない。
「リドル」
 もう一度、今度はさっきよりもしっかりとした声音で。
「答えて! リドルッ……!!」
 声の限りに叫んでみた。が、やはり答えはない。自分の声が辺りに呑み込まれると、より一層静けさが増した。
「……死んじゃったの? ホントに死んじゃったの……? ねえ、お願い……答えて」
 涙のつぶが頬を伝って落ちていた。なんのために泣いているのか気づいて、ジニーは握りしめたこぶしで拭う。
 心配したわけじゃない。リドルなんかのために泣いたわけじゃない。彼が死んだのなら嬉しいはずだ。【あの人】がいなくなれば皆が苦しむことはなくなる。罪もない人が殺されることも、なくなる。だから、嬉しい。
 泣いたのはきっと閉じ込められたままの自分が可哀想だったから。誰かがこの日記帳を処分してしまうまで、たった一人で生き続けなければならないのが寂しかったから…――だから泣いたんだ、と言い聞かせて。
 その時、微かな声が響き、
「リドルっ!?」
反射的に叫んでいた。けれど、返ってくるのは沈黙ばかり。
(気の…、せい……)
《ほう……これは驚いた》
 リドルの【声】とは違う。抑揚のない冷たい響きにジニーは驚いた。聞いたことがある。この声は。この話し方は…――
 忘れようもない。父親の天敵、冷たい目をした不遜な男。
「……ルシウス・マルフォイ」
《ご名答だ。君はウィーズリーの末娘だな》
「なんで、あなたが……リドルは? あの人はどうしたの?」
《彼が肌身離さず持っていたこの日記帳が私の元にある。言わずとも分かるのではないか?》
 肌身離さず? 彼が、【あたし】を?
 浮かんだ疑問に、さらなる当惑。咄嗟に何も言えないジニーを、ルシウスはせせら笑った。
《家族よりも、自分を殺した男の心配か。アーサー・ウィーズリーも情の薄い娘を持ったものだ》
 ドクン、と心臓が大きくなった。呼吸一つする間が、まるで十年もの歳月のように感じられた。胸を押さえて、勇気を振りしぼる。
「……どういうこと!? パパ……うちの家族に何があったの?」
《君の家族はあの方に従うのを潔しとしなかった。彼は純血ゆえに君の家族を生かそうとお考えだったが……愚かな君の父親と兄が抵抗してね。ああ、だが苦しみはなかっただろう。死の魔法で一瞬だったのだから》
「パパが……パパ達が?」
 ずっと見続けていた悪夢が、より残酷さを増して胸を打った。あまりのことに悲しみや怒りは湧いてこない。麻痺したように何も感じなくなった心は、静かに訊き返す。ただ言葉尻を返すことしかできない……それ以外の言葉を禁じられたこだまのように。
《私はまさにこの時を狙っていた。邪魔なアーサー・ウィーズリーが片づき、あの方……ヴォルデモート卿が老いぼれダンブルドアを討った時。死喰い人ら、総がかりで彼を襲った。勝利の瞬間見せた僅かな隙が私に幸を運んできたわけだ》
 ルシウスはゆったりと話しだした。顔が見えたら、おそらく勝ち誇った笑みを浮かべているだろう…――そんな声音で。
「あなたは……最初から裏切るつもりでリドルに従っていたの?」
 リドルへの憎しみも今は感じない。彼が死んだことを喜ぶ気持ちは少しも湧いてこない。それどころか、ルシウスへの問いかけは蔑みに満ちていた。主人を裏切ったことを誇らかに話す彼に。
 だが、そんなものに怯むことなどあろうはずもない。
《ふん……裏切る? 心外だな。彼の望みはマグルと【穢れた血】のない清らかな世界。ならば彼自身から消さねば望みは叶わないだろう? 偉大なる魔法使いの血が流れていようと、それでもう半分のマグルの血が帳消しになるわけではあるまい。
 さて、これから君をどうするか。取るに足らぬ小娘とはいえ、一時は仕えた方の想い人なれば丁重に扱わぬとな……。
 そうだ、甦りの魔法……あれはヴォルデモート卿以外扱えなかった禁術だが、君をその実験体にしてやろう。光栄だろう? いずれ不死さえも手中にし、ヴォルデモート卿の為しえなかった偉業を達する私の糧となれるのだ》
「……悪魔ッ」
 口をついてでたのは罵りの言葉。どんな嫌いな相手だろうと一度も使わないだろうと思っていた言葉だった。禍々しい響きにジニー自身戸惑ったけれど、それも一瞬。その言葉以上に的確に言い表すものはなかっただろうと感じたから。
「悪魔! あなたなんか地獄に落ちればいい……なんて…、ことを! 全てはあなたの企みだったのね!? 許せない、許さない!」
 【あの人】よりも、なおひどい。彼は少なくとも直接手を下していた。自分の手を汚すのを厭わなかった。なのに、この男はリドルを主人と崇めながら、いいようにけしかけて、最後の最後でハイエナのように全てをかすめ盗ったというのか。
《何を言ったところで君には何もできやしない。愚かな小娘……君が彼に心を奪われることさえなければ、こんなことにはならなかっただろうにな》
その言葉に、ジニーは頭を強打されたような衝撃を感じた。
(そう、だ…――あたしが彼を好きになったりしなければ、皆死ぬこともなかったのに。
 大切な家族を、ハリーを、友達を、なんの罪もない人達を殺したのはリドル……復讐してやりたかった。あたしを裏切った彼を苦しめてやりたかった……なのに怨みをぶつけることもできずに、彼は死んでしまったというの? いく当てのないこの想いはどうしたらいいの?
 いや、イヤだ、嫌だ――!)
 ルシウスの高笑いが聞こえてくるようだった。何度も何度も反響し、決して消えることはない。ジニーは耳を塞いで、縮こまった。ぐらぐらと世界が揺れだし、熱い涙があふれだしてとまらない。
 殺して、殺して、誰かあたしを殺して…――悲痛な想いはもはや言葉にならなかった。