巨大な龍の骨が横たわっていることで知られる溺れ谷。アルニ村とテルミナの街を行き来する人々が下方を通り抜ける以外に、そこを訪れる者は多くない。日当たりが悪く湿った土には一面コケが生えていて滑りやすくなっていたし、崖のように切り立った山道を登るのは非常に危険だ。その上、ここらには魔物がよく出没するときている。
今、その谷を挟んだ険しい山道を、青年が一人登っていた。まだ何処か幼さの残る顔立ちだが、体つきはたくましい。短いシャツの袖から覗く腕は褐色に日焼けしていて艶々と輝いていて、腰に帯びた剣が飾り物でないことを証明する太さを持っている。しっかりと巻いた鉢巻の下の目は真摯で、力強い。
かの高名なアカシア龍騎士団、団長ダリオの弟のグレンである。
彼が今、溺れ谷にいるのは魔物退治をして剣の腕を磨くためでもなければ、騎士団員として通行人を警護するためでもなかった。
一週間ほど前、亡者の島に亡鬼討伐にいったダリオの訃報が届いて以来、彼の婚約者であったリデルが憔悴してろくろく眠らず、食事も喉を通らないという。見舞いにいったグレンにも会おうとせず、ずっと部屋にこもっていた。今度の任務が終わったらすぐにでも結婚式を挙げることになっていたのだから、悲しみはより深いのだろう。
彼女の世話をしている者から、うわごとのように「青リンドウ」と繰り返していることを聞いたグレンは、その足で溺れ谷にやってきた。テルミナの花屋の店頭では青リンドウを見かけなかったが、この谷の何処かには早咲きのものがあると聞いたことがあったのだ。ダリオが毎年誰よりも早く青リンドウを手に入れ、リデルにプレゼントしていた。
(でも、その兄貴はもういない…――)
「うッ……!」
グレンは不意に岩陰から飛びかかってきた魔物を剣で払いのけた。
ティーバ――だるまのようにゴロンとした身体に、細く短い手足のついた小悪魔だ。それはバランスの悪そうな体つきとは似つかわしくない素早い動きで切っ先をよけると、高らかに錫杖を打ち鳴らした。すると今まで何処に隠れていたのやら、ずらずらと仲間達が姿を現した。五、六……全部で七匹だ。円陣に囲まれている。
キキ、と高い声が嘲笑っているかのようだ。軽やかに地面を蹴って身体を弾ませながら、そのうちの一匹が「バーニング」を唱えた。途端、グレンの足元が一瞬グラリと動いた。反射的に後方に飛び退いたのがよかったのだろう。今さっき踏んでいた地面から火柱が噴き上げたのを見て、グレンは冷や汗を流した。
「この! 人が急いでるって時に、どけよ! お前ら!!」
飛びかかりざまに剣を打ち下ろし、引き抜き際に振り払って近くにいた二匹を始末したまではよかった。が、勢いよく噴きだした血しぶきに目元を拭った一瞬が命取りになった。ゴッ、と耳の側で轟音がしたと思った刹那、全身に痛みが駆け巡った。背後にいた一匹が唱えたバーニングが直撃したのだ。
ピョンピョン飛び跳ねながら、ティーバの群れが輪を狭めて近づいてくる。グレンはなんとか立ち上がろうと、手足を動かそうとした。けれど、焼けついた身体は何処も動かない。意識はあるのに、顔を上げることすらできない。
(くそ…、万事休す……か)
「アイスランス!」
魔物のキンキン声とは違う、高く澄んだ声が耳に響いた。そして、一瞬後にザザザッと雨が降り注ぐのに似た音と、魔物達の悲鳴が。蒸し暑い空気が一変して、エルニド諸島にはない冬の様相を見せた。
「だいじょうぶ、おにいちゃん?」
「……あ、おま…、え……」
「しゃべらないで。いま、キズをなおしてあげるから」
ケアラ、というささやきと青い光を感じ取った。痛みが急速に退いていき、焼き切れたかのように思えた神経が元通りになったようだ。まずは指先を動かし、自分の思うように動かせるのが分かると、グレンは地についた両の手に力を込めた。起き上がると、まだ万全ではないのか、またしりもちをついてしまったが。
「ね、だいじょうぶ? アイツらはあたしがやっつけちゃったから、あんしんよ」
「……なんで、お前がここにいるんだ、マルチェラ?」
グレンの不機嫌そうな声音に気づかないのか、マルチェラはクスクスと笑った。
「おにいゃんのあとをこっそりおっかけてきたの。おにいちゃんがあぶなくなったら、たすけてあげようとおもって」
マルチェラはまだたった六歳の子供だが、亜人の血を半分だけ引いている。そのせいか生まれつき魔法を自在に扱うことができ、力もそのあどけない容姿とは裏腹に大の大人でも打ち負かせるほどのものを秘めている。その年齢にして、すでにアカシア龍騎士団の四天王として目されているほどに。
けれど、子供に助けられたことにグレンの心は軽く傷ついた。それも、普段【妹】として可愛がっている女の子に。
「危ないだろ、一人でこんなところまで。とっと帰れよ。兄貴のことがあって以来、皆不安がってるんだ。今頃、蛇骨館は大騒ぎになってるんじゃないか?」
ぶっきらぼうに答えるグレンに、マルチェラは大きな目をまたたかせた。
「あたしのほうが、おにいちゃんよりつよいもん。みんな、しんぱいなんかしてないよ? するとしたら、おにいちゃんのしんぱいでしょ?」
「いや……とにかく、小さい女の子がこんな危ないところにいちゃ駄目だ。早く帰りなさい」
「やだ。なあに? おにいちゃんったら、きゅうにおとなぶって! ね、ねっ、なにしにきたの? おしえてくれるまで、あたし、かえらないから!」
「マルチェラ!」
「おこっても、やーよ。べーっだ!」
思いっきり舌を突きだすマルチェラに、グレンはもう何を言っても無駄だと悟った。半端に焼け残った上半身の衣類を剥ぎ取ると、剣を鞘に収めて歩きだす。マルチェラはそんなことぐらいではめげなかった。小走りにグレンの後を追っていく。
「ねえ、おにいちゃん。おにいちゃんったら! ムシするなんて、ひどいよ! ねえったらー……」
「うるさい! 黙れよ!!」
ただでさえ大きなマルチェラの目が、飛びだしそうに見えた。唇が震えだすのを見て、グレンは慌てて言い足した。
「わ、悪かった、泣くなよ……ちょっとイライラしただけなんだ。な? ごめんって」
マルチェラは唇を噛んで、うつむいた。
「……さいきんのおにいちゃん、キライ。まえはムシなんかしなかったのに。あたしのこと、ちゃんとかんがえてくれてたのに。いまはリデルおじょうさまのことばっかり! あたしよりもリデルおじょうさまのことばっかりなおにいちゃんなんて、キライ! だいっきらい! リデルおじょうさまだって、キライ!!」
「あのなー……って、リデルお嬢さまのため? マルチェラ? お前、もしかして、俺がリデルお嬢さまのためにここにきたって知ってるのか?」
あっ、と口を塞いだマルチェラを見て、グレンは溜め息をついた。
「なんだよ……知ってるんじゃないか。なら、教えてくれよ。青リンドウ、何処に生えてるんだ?」
「やだ! なんで、おしえなきゃなんないの!? ぜったい、おしえないもん!」
「あっそ。じゃあ、いいよ」
マルチェラが足をとめる気配を感じたが、グレンはそのまま歩き続けた。一時的に冷えていた身体がようやくあたたまりだし、震えが走った。剥きだしになった腕をさすりながら身体を縮めた瞬間、マルチェラが刺すような声で叫んだ。
「おにいちゃん、リデルおじょうさまがすきなの!? でも、リデルおじょうさまはダリオのことがすきなんだから! ダレオがしんだって、おにいちゃんにチャンスなんてないんだから!!」
子供にそんな意味が分かるか、どうか。おそらくメイド達から聞いた話をそのまま問いかけているのだろう。グレンは両手足を突っ張って立っているマルチェラを振り返り、笑った。
「知ってるよ、そんなこと。でも、いいんだ。好きだから……兄貴を想うリデルお嬢さまも好きだから、いいんだ」
ダリオを想って悲しんでいるその姿にも惹かれた。この先、振り向かれることはなくとも、兄を想い続けてくれる誠実な女性をおそらく自分もずっと愛していくのだろう。
背を向けたグレンが谷間の陰に消えてしまうまで、マルチェラはその場に立ち尽くしていた。
2006.3.25