望むは強さ

 小さな身体をベッドに投げだし、握りしめたこぶしでマットを叩く。スプリングが打ちつけたこぶしを容易く跳ね返してくるのに苛つき、さらに力を込めた。食いしばった口の合間からかすれた声が洩れる。それが自分の泣き声だと分かった途端、マルチェラは動きをやめた。
 両親のない彼女が蛇骨館に引き取られてから六年の月日が流れていた。蛇骨館お抱えの研究者ルチアナが後見人となり、蛇骨大佐とその娘リデルらの庇護を受けた彼女は、世間一般の孤児とは違ってなんの不自由もない生活を送ることができた。マルチェラは両親のないことをなんら不思議に思うことなく、与えられるものを当然のものとして受け取っていた。
 生い立ちを哀れんで皆が甘やかしすぎたのだろう。年を経るにつれて我が強くなり、このままでは将来にも支障がでようと危惧するばかりになった。そこで大佐が館にほど近いテルミナの学校にマルチェラを通わせようと提案した。同年代の子供達に交じるのは学ぶところも多いはずだろうと。
 だが、それは数日と持たなかった。
 今日の昼前、学校にいるはずのマルチェラが館に戻ってきた時、門番はその姿に驚愕した。むきたてのゆで卵のようにつるりとした白い肌と、それによくあったごく淡いブルーのドレスは泥だらけになっていて、点々と血が飛んでいた。何処か怪我でもしたのかと心配した門番が医務室へと連れていったが、服を脱がせて身体を清めたところ、彼女は僅かなすり傷しか負っていなかった。だが、服についた血は少量だとはいえない。
 学校からの連絡で詳細はすぐに分かった。マルチェラを泥の中に引き倒した少年がいたらしい。だが、子供同士の喧嘩と納得するわけにはいかなかった。なぜなら、その少年は顎の骨を折る重傷を負っていたのだ。
 聞けば、その少年は十歳。四つも年下の少女に喧嘩で負けるどころか、そんな傷を負わされること自体信じがたい。そう、普通の少女であれば無理だ。だが、マルチェラにならそんな芸当も不可能ではない。蛇骨大佐は厳しい顔で謹慎を申し渡した。
 暗い部屋に押し込められ、一人っきり。子供らしく、マルチェラは一人で暗闇の中にいるのは好きではない。けれど、感情の昂ぶった今はどんな苦手なものも目に入っていなかった。
「ちくしょう……!」
 カーシュが前に使っていた、ムカつく時に吐きだす言葉を言ってみた。少しは怒りを消す作用があるのかと思って。だが、収まるどころか怒りはますますふくれあがるばかり。
 手に負えない感情を鎮めるよりも、その感情に翻弄された方がずっと楽だ。
(こんないえ、でてってやる…!)
子供らしい短慮さでそう考えた時、コツコツと音がした。ドアをノックする音かと思ったが、罰を受けている最中に誰がくるというのだろう。もう一度、同じ音がしてマルチェラは起き上がった。
 耳を澄ますと、もう一度――音は窓の方から聞こえてきた。閉めきったカーテンを左右に押し開けると見慣れた顔が飛び込んできた。
「おにいちゃんっ」
 シーッと口を指し示したのはグレンだった。頬に走った十字傷のせいか、そろそろ二十歳に近づいてきたというのに子供っぽさが抜け切らない。
 震える片手で窓の桟にしがみついて、しきりに左右に腕を振り、開けてくれと訴えていた。急いで窓を開けてやると、グイと両手で身体を押し上げ、前のめりに転がり込んできた。
「ああ…、死ぬかと思った」
「なんで、おにいちゃんが? どうやってきたのよ?」
「シッ、静かに……お嬢さまに聞いて心配になってな。様子を見にきたんだ。兄貴が協力してくれたから見張りも相当減ったし、木を伝って上ってきた。ここが庭側でよかったよ……崖側だったら足場がないもんな。
 で、お前なんであんなことしたんだ? 何か理由があるんだろ?」
 覗き込むような目を見ると、思わず涙ぐんでしまう。マルチェラはふいと目を背けた。
「……ないよ、理由なんて。腹が立ったから、なぐった。それだけ」
「嘘つくなよ。ちゃんとこっち向いて言え。お前ワガママだし手に負えない困ったヤツだけど、理由もなくあんなことするとは思えない」
 唇の震えは背中にも伝染する。見られているかと思うと余計に止められなかった。大きな手が両肩をつかんで、向きあわされる。マルチェラは急いで目元をこすった。
「おにいちゃん、おしえてほしいことがあるの」
「なんだ?」
「【アジン】って、なに?」
 ハッとグレンの顔に緊張が走るのを何処かで予想していた。だからマルチェラはさほど驚かなかった。
「マルチェラ。それ、誰から聞いた? もしかして、お前が殴った奴……?」
「……あたし、ニンゲンじゃなかったんだね」
 【アジンの子】と言った少年の顔つきから罵りの言葉だと予想はついていた。けれど、そうと感じとる前に、言葉を聞いた途端身体に痺れが走っていた。聞き覚えがないはずなのに馴染みのある言葉だと。
 気づけば自分にのしかかっていたはずの少年に馬乗りになって、胸倉をつかんでいた。一呼吸置いてから周囲の悲鳴と血の赤さが、臭いが。
 【アジン】が何かはよく分からない。けれど周囲に走った怯えと侮蔑の表情に【人間】ならこんなことはしないのだと感じられた。
 自ら【アジンの子】という証明をしてしまったようなものだ。
「馬鹿なこと言うな…! お前は何処をどう見たって人間だ、そうじゃないなんて誰にも言わせない。それに例え、お前が何者でも……俺にとっては大事な妹だ。そのことに変わりはないからな」
【アジンの子】でもそう言って、変わらず抱きしめてくれるグレンも否定はしなかった。
 蛇骨館では受け入れられている自分。少なくとも、ここでは異端視されたことはないと確信していた。それは何故か? 彼らは【人間】だが強かった。強いからこそ、力ある者を恐れない。
 グレンの腕の中で、ここだけが自分の居場所なのだと悟った。ここを去れば拒絶の嵐が待ち受けているだろう。その全てを薙ぎ払うことはできるだろうか? 今、こうして慰めてくれる両腕もなしに。できるわけがない。
 いつまでもここにいるにはどうしたらいいのだろうと必死に考え、マルチェラは一つの答えに辿り着いた。強さを求めるアカシア竜騎士団、その最たる力になってしまえばいい。【アジンの子】でも役に立てば、追いだされることは決してないだろう。子供らしい単純な、だが悲壮な決意だった。
 一人にならないために誰にも負けない強さがほしい。口にださぬその想いを、グレンが解するのはずっと後になってからのことだ。
 それから程なくして、マルチェラはアカシア竜騎士団至上最年少の四天王の座に登りつめた。

2004.3.15