帝王のコンプレックス
半球状の高い天井には窓もない。長い年月で少しずつ朽ち果て、ヒビ入った箇所から差し込む薄明かりだけが頼りの暗い部屋にはただ二人しかいない。
床に打ち伏した少女はぐったりとしていて、燃えるように赤い髪とは対照的に色をなくした顔は死人のよう。少女からそう離れていない柱に背をもたせている少年は、彼女を見つめたまま、まばたきすらせず彫像のようだった。
少女の名はジニー・ウィーズリー。可愛らしい姿かたちと周囲を和ませる温和な気性が災いし、さながら祭儀に捧げられる生贄の子羊のごとく魔王の化身に見初められてしまったのである。まあ、魔王とはいささか言いすぎの感も否めないが。この世界にその名を知らぬ者はないだろう――「例のあの人」こと【ヴォルデモート卿】の存在を。少年、トム・リドルはその過去の【記憶】である。
実はこのリドル、なんと六つも年下(外見年齢)のジニーに出逢った瞬間に一目惚れをしてしまったのだ。【未来の闇の帝王】となるだけあり、口先で人を操るのを得意とする彼はジニーが自分に心奪われるよう甘い言葉で洗脳していくのを試みた。確かに途中まではうまくいったといえるだろう。ジニーはリドルをこれ以上ないほどに信用していたし、誰にも言えない悩みさえ彼にだけは打ち明けていた。
だが、しかし! ジニー・ウィーズリーは超がつくほどの鈍感だった。自分に向けられている好意に少しも気づくことなく、よりにもよって初恋の君ハリー・ポッターの相談をリドルにしていたのだ。
何が悲しうて惚れた女子の恋愛相談を聞かねばならぬ。ついつい古語になってしまうほど切なくなったリドルはある手段を取った――拉致である。さすが変態道……もとい光の当たらぬ道を突き進む、彼らしい手段だった。
そういうわけで今に至る。
張り詰めた静寂を破る苛立たしげな足音にリドルはゆっくりと顔を上げた。
蛇語でロックされた扉を開けて現われたのは小さな影だった。その誰かはまごついたように入り口付近でとまっていたが、床に倒れるジニーの姿を見つけたのだろう。まっしぐらに駆け寄る。
「ジニー、ジニー! しっかりして……起きて!」
側まできて、ようやくそれが少年だと分かる。ジニーとそう変わらない年頃で、痩せぎすの身体は小さかった。
少年はひどく焦っているのだろう。手応えのない身体に動揺し、さらに力を込める。ガクガクと揺れ動くジニー。舌打ちし、リドルは眉をつり上げた。
「ジニーを乱暴に扱わないでくれないか、ハリー・ポッター」
ビクンと大きく反応し、少年――ハリーは振り返る。ありえない、というようにその目は限界いっぱいまで見開かれる。
「トム? 君は……トム・リドルか?」
五十年前の事件を垣間見たおかげで、ハリーはリドルの顔は知っている。何故過去の人間がこの場にいるのだ、と疑いの眼差しを向ける。
だが、リドルは目と目があった瞬間、雷に打たれたように硬直した。
「う……そだろ」
呆気に取られたように少しだけ開いた唇。そこから呻きに似たつぶやきが洩れる。
「まさか君がハリー・ポッターだというのか?」
「そう、だけど?」
質問に質問で返すリドルの言葉尻に不吉なものを感じて、ハリーは膝をつく。気を失っているジニーの重みに耐えられなかったのだ。だが、いつでも逃げだせるように手だけはしっかりと握ったままだ。
自分を見上げるハリーの額に稲妻形の傷跡を認め、リドルは頭を抱えた。
「ジニーの想い人がこんな貧相で頭の悪そうな小童だったなんて……ああ、ジニー、僕の何処がこいつに劣るっていうんだ……」
「はぁ?」
何言ってるんだ、こいつは。ハリーは首をかしげる。しかもサラリとひどいことを言う奴だ。だが、自己陶酔している闇の帝王はそんな様子も気にも留めない。
「天使の輪っかがでるサラサラの黒髪に、物語の王子ばりに端整な顔立ち、加えて頭脳明晰、魔力はピカ一……ハリー・ポッター、この僕よりも優れたところが君にあるとでもいうのか」
「なんだって? トム、それどころじゃない! バジリスクがいるんだ、ジニーを早く助けなきゃ…!」
「答えろ、ジニーが何故君を好きになったか。長く話せば話すだけ君の寿命は延びることになる」
いつの間にやら、リドルは取り落とした杖を拾いあげ、ハリーへと向けていた。憤懣やる方ないといった風情で。
何がなんだか理解できないハリーだったが、リドルが何故かジニーを知っていて好意を持っているらしく、その彼女が他ならぬ自分を好きなのが気に入らないようだということは分かった。
この際、リドルが何故ここにいるのかは置いておこう。
こうしている間にジニーの身体は冷たくなっていく一方だ。早く治療をしてやらねばならない。ハリーは一生懸命言葉を探した。
「……どうしてジニーが僕を好きなのかは分からない。でも、ジニーが何故君を選ばなかったか、僕には分かる」
リドルの表情が引きつった。投げかけた言葉に動揺している。
「……それは! 名前だっ!!」
「名前…、だと?」
「そう、僕のハリーという名はありふれている。けど、君の名前には遠く及ばない。なぜなら、トム……君のその名はマグルの教科書に乗っているような名なんだ! 世にたくさんあるハリー・ポッターのファンフィクションの中で、君の表記がトムとなっている数の少なさといったら…――」
くっ、と低く呻いたかと思うとリドルの身体がどんどん薄まっていく。
「い、言うな……それ以上! 僕だって…、僕だって……」
だが、火のついたようにハリーは続けた。
「君の名はダサイ! 田舎くさい!!」
世界中のトムさんに随分なことを言う英雄だ。両手で頭を抱えたリドルは苦しみに耐え切れずにうずくまり、断末魔の叫びを上げる。
床に開かれたまま投げだされている日記帳から、おびただしい量のインクが流れだしていた。それはコンプレックスを指摘された痛みに涙する【闇の帝王】そのものであったろう。
父親への憎しみではない。トム・リドルがヴォルデモート卿となった理由は、彼自身の名前によるコンプレックスだったのだ。
こうして【秘密の部屋】の事件は終結した。またもや【あの人】を打ち破ったハリー・ポッターは英雄として名声を高め、目を覚ましたジニー・ウィーズリーから憧れの視線をより一層受けることとなる。
(2004/3/20)