「なかなかやるな……ジェームズ・ポッター」
「お褒めにあずかって光栄だね」
切らした息を整えながら、ジェームズは答えた。まだ余力を残しているように見せかけるため、こわばる顔に無理やり笑みを浮かべて。片膝、片手をつき、いつでも立ち上がれるようにはしていたものの、今また攻撃がくれば避けられないのが分かっていたというのに。
招かれざれ客の訪いは、家全体を震わすような強風がピタリとやみ、静けさを取り戻した夜のこと。ささやかながらもハロウィーン風に家を飾り立て、ジェームズとリリーが質素な食事を楽しんでいる時だった。
微かなドアの軋みに気づいたのはリリーの方が先だった。形のいい目をいっぱいに見開き、息を呑んだ彼女は弾かれたように立ち上がり、ベビーベッドに駆けつけた。ハリーを抱き上げ、一瞬迷ったように動きをとめたリリーに向かって、ジェームズは叫んだ。ハリーを連れて逃げろ、僕があいつを食い止める――
彼女がよろめきながら奥の部屋に駆け込んでいくのと、ドアが開いたのは同時だった。改めて確認するまでもなかった。長いマントをはためかせて戸口に立っていたのは紛れもなく史上最悪の魔法使い、ヴォルデモート卿だった。
闇そのもののようなローブの裾がゆっくりと持ち上がったと思うと、杖先から緑色の閃光が発せられた。ジェームズが横っ飛びになんとかかわすと、続けざまに何度も攻撃をしかけられた。その全てをかわしたまではいいが、段々と隅の方に追いやられ、ついに逃げ場がなくなった。攻撃の手を緩めたヴォルデモートに、最初から避けられるように攻撃されていたことを知った。
顔の大半を覆い隠していたフードを上げ、ヴォルデモートは醜悪な顔を興奮に輝かせていた。猫がネズミをいたぶるようにジワジワといたぶり殺すつもりだろう、とジェームズは考えた。しかし、それは彼にとって願ってもないことだった。自分を殺すのに手間取れば手間取るだけ、リリーとハリーが助かる可能性が高くなる。なんとか隙を突けば、自分も逃げおおせるかもしれない…――僅かな希望に取ってつけただけの笑みが本物に変わると、ヴォルデモートは不可解そうに顔をしかめた。
「純血で、それだけの才覚を持ちながら、何故俺様に逆らおうとする? いまや魔法界の勢力は完全に俺様に傾いているのが分かっておろう。あの老いぼれへの忠義立てか?」
「違うな。僕はなんの罪もない人を手にかける、お前の思想に同調できないんだ」
「愚か者が。罪のない者など、この世に誰一人としておらぬわ。そうだな、お前の身近にも……何故俺様がここにこられたと思っている、ポッター?」
「ピーターを殺したのか」
問いかけではなく、確信だった。忠誠の術は【守人】が口を割らない限りはいかに【秘密】を探ろうと見つけることはできない。だが、いかに【秘密】を厳守しようと人間の精神には限界がある。丸々とした顔いっぱいに恐怖をたたえ、死の間際になって泣く泣く【秘密】を洩らしたであろう親友を思い浮かべ、ジェームズは唇を噛んだ。怨む気持ちはなかった。ただ、彼まで巻き込んでしまったのが悔やまれた。
次の瞬間、ヴォルデモートは頭をのけぞらせて笑いだした。
「ワームテールはお前達一家を売ったのだ、ポッター」
「お前……何故その名を」
学生時代、親友達と呼びあった名は妻のリリーでさえ知らない。ジェームズは背筋に冷たいものが這い上がっていくのを感じた。
「奴は得意げに話していたぞ? ブラックの勧めで【秘密の守人】を代えたそうだな……そのような小賢しい真似をしなければ、お前達が危険にさらされることはなかっただろうに。
顔色が悪いぞ、ポッター? 根性の座らないワームテールのような小物を信じたのが運の尽きだな」
「あいつを馬鹿にするな…!」
時間稼ぎをしようとしていることも忘れて、ジェームズは吼えた。
「おやおや。裏切られたというのに、まだ庇うとはな」
「僕の誇るべき友人は誰一人として仲間を売ったりはしない! お前の舌先三寸に騙されるものか!!」
「貴様の目は補強できないほどに弱っているらしいな、ポッター。さて……お前にこれ以上の用はない。死ね」
ヴォルデモートの杖先に光が灯った瞬間、ジェームズは床を蹴っていた。当たり損ねた呪いが壁を砕く音は、何光年も離れたもののように感じられた。宙で身体を反転させ、着地するやいなや、握った杖を突きだした。
仕留める寸前で牙を剥いた獣に、ヴォルデモートが驚愕したように後退った。
素早く呪いの言葉を口にしようとしたジェームズの目に、開け放たれたままの戸口に立っている人影が飛び込んできた。小柄な誰か。唇を引き結んで、涙があふれでるのをなんとかこらえている誰かが…――ジェームズは呼びかけた。が、答えはない。
ジェームズの身体が布袋のように床に投げだされた。彼は永遠に答えを聞けないまま逝ってしまった。
「ご主人さま……外から窓を封鎖し、あちらの奥の部屋にポッターの妻と子供を閉じ込めてございます。ご検分を」
「よくやった、ワームテール」
フードを深々とかぶり、うなだれたまま進みでた部下に素っ気ない労いの言葉を与えると、ヴォルデモートは足早に居間からでていった。
一人残されたワームテールは無言のまま足元に転がるジェームズを見下ろしていた。やがてガクリと両膝をつくと、震える手で彼のローブを撫で、うつ伏せの身体を仰向けてやる。倒れた拍子に捻じ曲がった眼鏡をはずすと、両目を閉ざしてやった。
「すまない、ジェームズ……すまない……僕にはこうするしかなかった……君達のように強くはなれなかった……すまない……」
ワームテールはまだあたたかい身体に取り縋り、何度も繰り返した。黒いローブに少しずつ染みが広がっていく。けれど、応えは二度となかった。
(2004/10/31)