Pretenders

 バルコニーに出ていくと、ちょうど彼女が手すりに寄りかかるようにしながら身を乗り出すところだった。震える片手で体重を支えながら、もう一方の手を必死に伸ばして。降り始めの淡雪をつかもうとしているのだ。子供だと匂わせるだけでも怒るが、その言動はやはり子供だ。手のひらに舞い降りた雪に、嬉しそうな声を洩らした。
「何がそんなに楽しい? こんな寒空の下、外に出て」
 私がきたことに気づいていなかったのだろう。あら、とビックリしたように振り返った途端、バランスを崩して車椅子に倒れ込んだ。
「イッ…、たぁ……」
「大丈夫か? 無茶をするな」
 落ちた膝掛けを拾ってかけ直してやると、悪戯しているところを見つけられた子供のように罰の悪い顔をした。頬を赤らめながら、
「感動の薄い人ね。きれいなものはもっと近くで見てみたいって、そう思わない?」
「近くで見れば感動が薄れる。そんなものもあるからな」
 鼻の奥まで凍らせるような寒さだ。マントを脱いで着せかけてやると、彼女は大きな目をまたたいた。

 私がこのジニー・ウィーズリーを【妻】にしたのは、今から半年ほど前のことだ。ダンブルドアに次いでハリー・ポッターが死ぬと、【あの方】は魔法界を掌握された。魔法省とはまったく現金なもので【あの方】が復活した当初はその存在を否定し、次には真っ向から対立しようとしたというのに、自分達の真の王が現れたと諸手を挙げて迎え入れることにしたという。
 それに異を唱えたジニーの父親、あのアーサー・ウィーズリーはかつての同僚達の手によって捕らえられた。家族共々【あの方】の前に引きずり出され、拷問の果てに命を落とした。直に手を下したのは、この私だ。私がこの手で、彼女の家族を奪った。それだけでなく彼女の処女の神聖さえも犯してしまった。
 全ては【あの方】の命令だ。憎悪している父親の骨を使って甦ったことにこだわっていたのか、【あの方】は新たな身体を欲していた。ゴドリック・グリフィンドールの遠い子孫である彼女と、微弱ながらもサラザール・スリザリンの血を継ぐ私とを交わらせ、二つの純血を束ねた赤児の肉体を欲していたのだ。
 ジニーは無論抵抗した。だが、彼女を庇い立てする者はもはや誰もなかった。万一にも逃げられぬようにと両足を切り落とされ、高い塔に押し込められた彼女に何ができたろう。
 私は毎日のように彼女のもとを訪れた。彼女に子を宿すため、という名目で。身ごもると、今度は子供を殺さぬようにと我が家の離れに移した。妻の、息子の非難の眼差しを気にも留めずに。それは【あの方】の命令に従うためだけではなかった気がする。

「ルシウス……?」
 小首を傾げるジニーの前にしゃがみ込み、膝掛けの下に手を差し入れた。ほんの少しふくらんできた腹から、トクトクと小さな音が伝わってくる。私自身の脈拍かもしれないが、この小さな身体に宿ったもう一つの命かもしれないと思うと、心がじわりとあたたかくなる。
「また少し大きくなったな」
「毎日同じことばっかり。一日でそんなに変わるはずないじゃない」
 クスクスと笑いながら、ジニーが言う。
「いいや、大きくなった。男か、女か……どちらにせよ、君によく似た跳ねっ返りになりそうだな。そのうち早く出せ、と腹を蹴って暴れだすだろう」
 ジニーの顔が、急に曇った。彼女は濡れた手のひらを見つめ、吐息をついた。重たげな白いモヤがゆったりと膝へと落ちていき、見えなくなる。
「あたしね、この子に大きくなってほしくないの。このまま、お腹の中にいてくれたら……そしたら、ヴォルデモートにこの子を渡さなくてもいい。ずっと一緒にいられるって……そう思ったの」
「まだずっと先のことだ。そんな先のことを考えるな」
「考えるわ。この子はあたしの子供なのに……どうして取り上げられなきゃならないの?」
 腹を抱き、つぶやく。そうすれば子供を守れると考えているかのように、前かがみになって。
「【あの方】が気を変えるかもしれん……」
「変えるはず、ないじゃない。あたしが産むのを今か今かと待ちかまえてるのよ。産んだら、すぐに取り上げて、それで……それで、あたしの赤ちゃんの身体を乗っ取るんだわ! 憎い、憎いわ、ヴォルデモートが……あいつはあたしの大事なものを全部奪っていく……!」
「落ち着きなさい、ジニー。身体に障る」
「どうして、そんなに落ち着いてられるの!? この子はあなたの子供でもあるのよッ!?」
 ジニーは涙ぐんだ目で私を見つめた。
 頭の芯が痺れてしまったかのようにグラグラした。何も言えない私を睨みつけ、ジニーは車椅子の車輪に手をかけた。キィキィという音が遠ざかっていくのを聞きながら、私はまだ動けずにいた。

 他愛もない時間を共に過ごして、赤児の誕生を心待ちにして…――そんな【夫婦ごっこ】はこんな風にすぐに破れ去る。彼女が私に心を許し、笑いかけてくれるようになっても、それ以上の奇跡は起こらない。私達は本物にはなれないのだ。何故なら、私は【あの方】に逆らうだけの勇気を持ち合わせていない。ジニーと子供を連れて逃げるという道を考えたことすらなかった。
 遠国に生息する雪虫――私とジニーの関係を例えていうなら、それだ。一見すべきは雪と見紛うほどだが、近づいて見れば全く違う。醜い虫が美しい雪に成り得ないように、どれだけ私とジニーが近しくなろうが、真に夫婦になることはできない。
 近づきすぎては駄目なのだ。正体を悟られぬよう、ある程度の距離を保たねば。でなければ、気づかれてしまう。
 額や肩にかかる雪の冷たさに、次第に自分を取り戻していった。愛しているから騙せないというなら、必要以上に愛を注いではならない。その場限りの嘘でもいい。ジニーを安心させ、【夫婦ごっこ】を続けるのだ。そうすれば偽りの幸せにもう少しの間浸ることができるだろう。
 ジニーの後を追って、暖かな部屋に戻る。雪が溶け、緩やかに肌を滑り落ちていった。

(2006/10/24)