ブラックホール

 ついてない一日だった。朝はひどい頭痛で目を覚まし、顔を洗おうと洗面台まで辿り着いた途端に吐いてしまった。久々に親友達と集まり、ついつい飲みすぎてしまったせいだろう。母が用意してくれた朝食をなんとか喉の奥に流し込むと、仕事に出かけた。
 不死鳥の騎士団に所属している者は魔法省の職員であったり、グリンゴッツで銀行員として勤務していたりと本業がある。闇の魔法使いに対抗する組織で活動をしていても無論給料が出るわけではない。ブラック家に勘当されたとはいえ、叔父から莫大な財産を引き継いだシリウス。名門ポッター家の一人息子であるジェームズ。騎士団の仕事に専念しているのはこの二人ぐらいなものだ。ホグワーツを卒業してからはリーマスにも滅多に会わなくなっていた。狼男という業のせいで定職を決めるのが難しいのだという。
 シリウスとジェームズのことは学生時代と変わらず大好きだし、会うのは嬉しい。けれど、劣等感も覚えてしまう。この二人と自分は所詮身分が違うのだと。そして、リーマスに会うと安心する。惨めな境遇を聞くと慰めの言葉がスラスラと出てくるが、それは友人としての好意ではない。自分よりも不幸な人間がこの世にいると心が広くなるからだ。
 なんてひどい奴。我ながらそう思う。
 自己嫌悪の中で仕事をしているといつにも増してヘマをやらかす。上司に散々怒鳴られ、放免された頃にはとっくに日が落ちていた。いつも定時上がりだったから母が心配しているに違いないと普段は通らない抜け道を通ることにした。それがいけなかった。

 暗い路地には深々とフードをかぶった男が立っていた。嫌な予感がして早足に行き過ぎようとしたが、
「こんばんは、ピーター・ペティグリュー」
「……ぁ、あ、あんたは」
 フードを脱いだ男の顔を見て度肝を抜かれた。平たく蛇を思わせる顔に、暗がりの中でも赤く浮かび上がる目…――誰何するまでもない。
「もちろん君は私のことを知っているはずだな」
 【名前を言ってはいけないあの人】だ。すぐにでも逃げ出したいのに震えが走って、足が動かない。杖を向けられ、反射的に縮こまってしまった。嘲るような笑い声がに顔が火照るのを感じた。こんな仕草が死の呪いに対する防御になど成りえないことは分かっているはずなのに。
 かなわない敵と対峙する時も決して背は向けるな。恐れずに立ち向かう勇気を持て。親友達に誘われて入った決闘クラブで言われた言葉が思い出された。
 勇気ある者が住まう寮、グリフィンドールに所属した者として無様な姿をさらすな。そう言い聞かせ、立ち上がろうとした、その時。
「今日のところは君に話があってやってきたのだ。殺しはしない。今はまだ」
 自分の肉体が、自分の意思とは別に動く。まるで操り人形になったかのようにぎこちなく立ち上がる身体に絶望感が込み上げる。勇気を振り絞って杖を振ろうとしたところで、その腕さえも簡単に【あの人】は止めるに違いない。絞め殺される寸前の鶏は自分のような顔をしているのではないだろうか。肉食獣のように恐ろしい目が舐めるように見ている。視線を逸らせばたちまちに屠られるような錯覚を覚えた。
 ほんの僅かにでも隙があれば、鼠の姿になって走り去れるかもしれない。けれど、もしも捕まったら? 死ぬことも恐ろしいが、その前に拷問を受けることも考えられる。死ぬのは嫌だ。痛い思いをするのはもっと嫌だ。
 【名前を言ってはいけないあの人】が冷ややかな笑みを浮かべた。
「なるほど。お仲間がいないところで散々にいたぶられたことがあるのだな。もう、あんな思いはしたくないと」

 脳裏に浮かんだ学生時代の記憶――シリウスが傍らから離れた途端、スリザリンの連中に空き教室に引っ張り込まれて受けた暴行。魔法の練習台にしてやると次々と魔法を浴びせられ、呪いで変形した身体が薄気味悪いと足蹴にされ、いつ果てるかもしれない恐怖に漏らしてしまった。これ見よがしに鼻をつまみ、顔をしかめる連中が笑っていた。

 ――腰巾着のペティグリューめ。どうだ、お友達がいなきゃ、お前なんかには何もできやしないだろう。

 どうやって助かったのかはよく覚えていない。連中が医務室に連れて行ってくれたとは考えづらいから、おそらくジェームズかシリウスか、それともリーマスかが忍びの地図を使って見つけ出してくれたのだろう。ジェームズとシリウスはそれこそ烈火の如く怒って、彼らに仕返しをしに行ってくれた。

「仕返しをしてくれたのは嬉しかった。だが、それで傷つけられたプライドが元に戻るわけではない。君の痛みが和らぐわけではない。そうだな、ピーター?」
 心を読まれている…――意志の力を総動員して恐ろしい赤い目を見ないようにした。【名前を言ってはいけないあの人】は開心術を得意とする。これ以上、情報を与えてはならない。騎士団の仲間達を危険にさらしてしまう。
「涙ぐましいではないか、ピーター。仲間が大事か? 自らの命よりも?
 そうとも。ピーター、君が命を賭してお仲間の情報を守ったとしよう。きっと彼らは君の所業に感謝し、我々を殺して仇を討とうとしてくれるだろう。だが、それで終わりだ。お仲間が仇を討とうと、討てなかろうと、君の命は終わったままだ。甦るわけではない。そうだろう?」
 聞くまいとするのに耳に入ってくる。彼の言葉は真実だからだ。今までに死んでいった仲間達の弔いの時、皆、涙を流して復讐を誓った。だが、それが死者にとってなんになる? マーリン・マッキノンなど騎士団と関係のない家族まで殺された。乳飲み子までいたのに。自分の命だけでなく、幼子まで殺されて。仇など討らなくていい。生き返らせてくれ。そう思わないだろうか?

 騎士団になど入らず、痛い思いも怖い思いもせず、生き続けるのは悪いことなのか?

「本題に入ろうか、ピーター。私は君を買っている。無論、君の友人達――シリウス・ブラック、ジェームズ・ポッターも。
 だが、あの二人はどうやら私のやっていることがお気に召さないようだ。何度も声をかけてはきたのだがね……そこで、ピーター。君から説得してもらえればと思ったのだよ。説得が難しければ彼らが何処にいるか、何をしようとしているかを逐一私に知らせてほしい。無論彼らに危害を加えるようなことはしないと約束しよう。彼らの能力は同年代の人間と比べてとりわけ秀でている。私もその力を欲しているのだから」
「ぼ、僕は……あんたの仲間になんか」
「いいや、ピーター。賢い君は私の誘いを断らないはずだ」
 静かすぎる声に、じっとりとした汗が目の辺りまで落ちてきた。拭いたいのに手が動かない。視界の端にある【あの人】の口が三日月形に歪んだ。
「君は近所でも評判の母親思いらしい……実は私の友達が、偶然君の家のすぐ側に住んでいる。噂はかねがね聞いていたよ。素晴らしいお母上のようだ。貧しい中、女手一つで君のように一人前の魔法使いを育て上げたのだろう?」
「……まさか、母さんを」
「もう一度聞こう、ピーター。私に協力してくれるだろうか?」
 言うべき言葉は一つだけしかない。
「は…、い……」
 答えた瞬間、重荷を下ろした充足感に包まれた。親友達を裏切る――それは正義を重んじるグリフィンドールの精神が抵抗する。だが、たった一人の母に危害が及ぶかもしれないから。それならば協力せざるを得ない。そう、【闇の帝王】は逃げ道を用意していた。親友達を裏切るに足る理由を。篭絡する手管を知り尽くしている。なんという恐ろしさだろう。
 だが、もう怯えなくてもいい。自分は今、恐ろしかった闇の一部となったのだから。

(2013/09/30)