優しい嘘

 眠れない。
 ぼんやりと天井を眺めていたパーシーは、身体を右に向けた。すぐ横には、ジニーが身じろぎ一つせずにぐっすりと寝入っている。月明かりに浮かび上がる青白い顔に生気はなく、微かに聞こえる寝息がなければ、まるで死んでいるようだ。
 ふっと浮かんだその考えにゾクリと背筋が冷える。
 スリザリンの継承者にジニーがさらわれて、深い絶望に突き落とされたのはつい一週間前。生徒を……そう、監督生さえも無差別に襲う残虐な相手だけにもしかしたら、という僅かな希望さえ持てなかったが、奇跡的にもジニーは生きて戻ってきた。
 医務室に駆けつけた家族皆に抱きしめられ、無事を喜ばれた時、ジニーはひどく疲れて見えた。青ざめた顔に浮かんだソバカスが痛々しいまでに目立ち、大きな紅茶色の目にはきらきらと楽しげな輝きの代わりに紛れもない怯えが宿っていた。だらりと力なく垂れた腕が、小柄なジニーをより小さく見せた。
 事件のショックが強かったんだろう。きっと時間が解決してくれるに違いない。その時はそう思っていた。
 だが……。

     *****

 鎮静剤を飲まされたジニーはその夜、医務室に泊まり、翌朝寮に戻された。一晩ぐっすり寝たからか、顔色もぐっとよくなり、集まってきた寮生達におはようを言いながら、笑顔で対応していた。
 事件の黒幕が【例のあの人】だっただけに、生徒達に無駄な恐怖を煽るのを恐れたダンブルドアが事件の詳細を隠してくれた。知っているのは家族と教授達くらい。皆ジニーが【秘密の部屋】にさらわれただけなのだと思っていた――まるで物語の登場人物のように。
「【秘密の部屋】ってどんなだった?」
「継承者って結局誰だったの?」
 遠慮がちに、だが好奇心から次々と投げかけられる矢継ぎ早な質問に、ジニーは少し芝居がかった口調で話しだした。意識を失うまでの僅かな時間、蠢くバジリスクの影、冷たく暗い【秘密の部屋】、そしてすんでのところで助けにきてくれたハリーのことを。
 話題を遮ろうと立ち上がったパーシーは、その様子に唖然とした。
(おかしい。昨日の今日で、こんなにあっさり立ち直れるものなのか?)
 その時、クスクス笑うジニーと目があった。まぶしいものでも見たように、大きな目が急激に細まる。すぐに視線は違うところにいってしまったが、その一瞬ジニーの目を翳らせたものを確かに見た。

 そして、その夜のことだった。
 いつものように寮内の見回りをし、寝る前に明日の予習でもしておこうと机に向かった途端、獣の咆哮に似た何かが静けさを破った。
 パーシーは羽ペンを放り投げると、肩を怒らせながら部屋を飛びだした。
 この前のお祭り騒ぎに味を占めた下級生が調子に乗って何かやらかしたのか。全く…、こんなことではグリフィンドールはいくら自分が点を稼ごうと優勝できやしないじゃないか。
 そんなことを思いつつ、各部屋を点検していったが、男子寮には別段変わったところがなかった。寝ていた生徒が飛び起き、今の悲鳴はなんだったのかと興奮気味にざわついているくらいだった。
 何が起こったのか知りたがる寮生達を部屋に押し留めて、階段を駆け下りていく途中でまたさっきの悲鳴が聞こえた。女子寮の方だ。
 女子寮――ハッと頭をよぎったのはジニーのことだった。
(まさか【あの人】がまた何かしたのか!?)
 一般生はもちろん、監督生も異性の寮に入ることは固く禁じられている。普段はいかなる規則をも破るのを嫌うパーシーだったが、この時ばかりはそんなことを考えている余裕はなかった。
 階段を飛ぶように駆け上がり、一つ一つの部屋を覗いて回った。女子の監督生のところにいって部屋を訊いた方が早いということに気づかないくらい動転していたのだ。
 あるドアの前で、かすれた悲鳴が洩れているのに気づいた。ノックもそこそこに慌しくドアを開けると薄明かりの中、一つのベッドの前に寮生が寄り集まっているのが見えた。不安げな目を見交わし、パーシーが入っていくと一様に顔を緩ませる。
 ジニーが、と指差す少女に一つ頷くと、
「ジニー?」
布団を頭からかぶり、ベッドの隅で小さくなっている妹に声をかけた。だが、返事はない。
「ジニー!」
 どうしたのかと無理やり布団をはぎ取ると、小刻みに震える小さな身体が現われた。両腕の間に顔をうずめ、光を恐れる魔物のように縮こまっている。
「ジニー、大丈夫かっ。ジニー…!?」
 肩をつかんで揺さぶると、顔がようやく見えた。汗ばんだ額に絡みついた赤毛に、痙攣しているまぶた。その奥の瞳は焦点が定まっておらず、半開きの口元が哀れなほどに震えていた。
 抱き起こして揺さぶると、人形のようにガクガクと首が動く。その手ごたえのなさがひどく無気味だった。やがて遠くを見ていた目がパーシーをとらえると大きく見開かれ…――ヒュッと息を呑み込み込んで、ジニーは気を失ってしまった。
「一体何が……どうしたっていうんだ」
わけが分からず、つぶやいた。
 同室の生徒達も首を振るばかり。聞けば、いつも通りに床に就いて、しばらく経つとうなされだした。それがあまりにひどくて一度起こそうと声をかけたら、突然悲鳴が上がったのだという。
 どうしたらいいか分からなかったが、そのまま放っておくわけにもいかず、パーシーは自分の部屋に連れていった。ジニーの悲鳴は幸運にも塔の外には聞こえなかったようなので、マクゴナガルもきていない。それなら深夜に医務室にいって他寮生――特にスリザリン生――に余計な噂の種をばら撒くよりは、しばらく様子を見ていた方がいいかもしれないと思ったのだ。
 乱れた髪と服を形ばかりに整えてやると、ベッドに寝かせた。ゆっくり布団をかけやると、ジニーはうっすらと目を開けた。
「ジニー、大丈夫か?」
「……トム?」
虚ろな瞳が数度まばたきすると、光が戻ってきた。
「パーシー」
 半身を起こして、不思議そうにパーシーを見る。
 とりあえず意識を取り戻したことに安堵して、訊いてみた。
「一体どうしたんだ? 夜中に突然叫んで皆、驚いてた。怖い夢でも見たのか?」
「パーシー…、どうしよう」
 ジニーはガタガタと震えだした。頭を抱えて、うずくまる。顔と布団の間から、すすり泣く声が洩れてくる。
「暗くて、怖いの……あたし、夜が怖い。目を閉じたらリドルがでてきて、あたしを殺そうとするの」
「ジニー、全部もう終わってしまった。ハリーが【あの人】を消してくれた。そうだろ?」
やはり皆の手前、無理をしていたのか。
 パーシーは努めて優しい声で言ってやったが、ジニーは信じられないというように顔をうずめたまま、首を振る。自分が操られて同じホグワーツ生を襲っていただけでもショックなのに【あの人】の記憶と対峙して殺されかけたのだから、ジニーの反応も当然かもしれない。
 温かいココアを飲ませて寝かしつけてやったが、何度もうなされ、そのたび悲鳴を上げた。そして朝になると、夜のことを全て忘れたように明るく振舞う……いや、振舞おうとする。
 それが数日の間続くと、寮生の誰も【秘密の部屋】を口に上らせることはなくなった。別に誰が口止めしたでもない。自然とそうなったのだ。それほどにジニーの取ってつけたような明るさが痛々しかった。

     *****

 布団を握り締め、食いしばった歯の間から洩れる呻き声。青ざめた顔は汗にじっとりと濡れていて、ここ数週間で病人のようにやつれてしまった。以前はふっくらとしていた身体が、こんなにも弱々しくなってしまうなんて。
 パーシーは幾度となく自分の杖を眺めては首を振った。ジニーを苦しめている記憶を消してしまえば楽にしてやれるのに、と。
 だが、人の記憶に関わる魔法は扱いがとても難しい。一つ間違えれば、相手を廃人にしてしまう危険だってある。いくら優秀な成績を修めていようと、自分はまだ学生なのだ。【あの人】の記憶だけ都合よく消すことができるだろうか。
 何度もためらい、考えた末に、パーシーはすっかり忘れていたことを思いだした。
 そんなことが可能な人物は誰か。パーシーがこの世で最も偉大な魔法使いと信じて疑わない彼――そうだ、ダンブルドアならば、きっとできるに違いない。
 両親の承諾を得ると、すぐにジニーを連れていった。
 ダンブルドアは渋々とだが、引き受けてくれた。精神に後遺症が残る可能性があるからと、忘却術ではなく暗示を使って【あの人】の日記帳に関わったことを全て忘れさせてくれた。
 日を追うごとにジニーは本当の元気を取り戻していった。
 どんなにつらい経験でもいつか糧になる日がくる。そのダンブルドアの言葉は正しいとパーシーは思う。けれど、苦しんでいる妹を目の当たりにして放っておくことなどできなかった。どんな些細なことでもいいから負担を減らしてやりたかったのだ。
 閉ざされた記憶の扉はいつ、なんのきっかけで開かれるか分からない。そうなったら、ジニーはまた苦しむことになるだろう。けれど、子供の頃に泣いた痛みが大人になったら我慢できるように、少しずつ耐えられるようになるだろう。
 願わくば、ジニーの心の平穏が長く続いていきますように。可愛い笑みを浮かべるジニーを見て、パーシーはそう祈らずにはいられなかった。

(2003/03/18)