打ちひしがれたようなその屋敷は、数年前に訪れた時と変わりはない。いや、むしろ最後の主を失い、たった一人棲みついていた屋敷しもべもホグワーツにやってしまって、完全に無人となったその屋敷は荒廃の色を濃くしていた。男はペンキが剥がれてみすぼらしくなった正面玄関を遠巻きに見つめていた。
彼――ハリー・ポッターは、このブラック屋敷の正当な相続人であった。ブラック家最後の一人であるシリウス・ブラックが、名づけ子の彼に残した財産の一部である。だが、彼は自分の所有物であるその屋敷を、まるで盗人に入るように窺っている。立てたコートの襟の合間から噴きだした白い息が、舞い散る雪に混じりあい、空気に溶けていく。ポケットに手を突っ込んだ彼は震えていた。ロンドンには珍しく、今日はひどく冷え込んでいる。
どれほどそうしていただろうか。とうとう寒さに耐え切れなくなったのか、彼はぎこちなく手足を動かし、玄関へと続く石段を駆け上がった。獲物を丸呑みにしようとする獣のように、屋敷はぱっくりと口を開けた。ハリーは伸ばしかけた手を引っ込め、忌々しげにドアを見る。だが、足はとめず、そのまま玄関ホールの中に入っていった。途端、背後のドアは大きな音を立てて閉まってしまう。
完全な暗闇に閉ざされる前に、ハリーは杖先に火を灯していた。鋭い爪で切り裂かれたような壁から、老女の呻き声が洩れる。
「……卑しいポッター家の倅が、我が家に何用か! 立ち去るがいい!」
艶のなくなった黒髪を振り乱し、叫んでいるのは肖像画の中に描かれた人物だ。自由を望む囚人のように両手を前に突きだし、叩きつけている。まるで自分が絵の中の封じられている偽者にすぎぬことを分かっていないかのようだ。ハリーが目もくれずに通り抜けると、その声は一層すさまじくなった。
「我が家の衰退はお前のせいだ、ポッター! 私の宝だったあの子をさらい、悪魔と取り替えた!! 呪われるがいい、穢れた血やマグルに冒された身は腐れて地に還るがいい!!」
ハリーは少し驚いたようにこの狂女の肖像に目をやったが、叫びはもはや聞き取ることのできぬほどひどいものになっていた。口汚い罵り言葉から逃れるように、ハリーはホコリでズルズルになった廊下を急ぎ足でいく。階段を二段飛ばしに三階まで上がると、彼は向かって右手の廊下を進んだ。手前から、一、二、三とドアの数を数えていき、あるドアの前で足をとめた。
「アロホモラ」
ささやくように開錠の魔法をささやくと、カチリと内側から鍵の外れる音がした。
その小さな部屋の中には人影があった。揺り椅子にもたれて、入ってきたハリーを見つめているのは幼い少女だった。二回り昔の貴族が身に着けていたようなきらびやかなドレスに身を包み、落ち着き払った顔をしている。立ち上がろうともしなければ、声もださない。何故なら【彼女】は人形だった。両脇に手を差し入れ、用心深く抱き上げると、揺り椅子がキィと小さな音を立てた。
*****
「きなさい。面会人ですよ、マルフォイ夫人」
暗い独房の隅にうずくまった影が、頭を振り振り、顔を上げた。痩せた女だ。端の擦り切れたショールを首元で束ねるようにし、光のない目を鉄格子のはまった小さな窓へと向ける。外にいるはずの看守の姿は見えない。
鍵が開けられる音が響くと、彼女は力を振り絞るようにしてゆらりと立ち上がった。喪服のように飾りっ毛のないローブも、ショール同様に裂け、薄汚い。ドアの陰から現れた小太りの看守に歩み寄り、おとなしく両手を差しだした。生気のない目で、手首を縄で縛られるのを見届ける。彼女を促すように、看守は長いロープの先を引く。飼い馴らされた犬のように、彼女はなんら抵抗することはなく、おとなしく独房から連れだされた。面会人が誰なのか、そんな疑問一つ口にださずに。
ナルシッサ・ブラック・マルフォイがアズカバンに収容されたのは、今から二年ほど前。ヴォルデモート卿が倒れた後、今までの汚名をそそごうとでもいうつもりか、魔法省が死喰い人の一掃に乗りだした。腕に【闇の印】を持つ者、その家族、スパイと疑われた者、【闇の帝王】に協力していたと言われた者が容赦なく捕らえられ、ろくろく裁判にもかけられないまま、天然の要塞アズカバンに放り込まれた。魔法界での最高刑はこれまで吸魂鬼の住まうこの監獄での終身刑であったが、その吸魂鬼もヴォルデモート卿に加担したことで抹殺される対象となった。闇祓い達により吸魂鬼は次々と消し去られていき、アズカバンの看守には新たに魔法省から役人が派遣されることとなった。そして、少しずつ幸せの記憶を吸い取っていき、みじめな余生を送らせるという終身刑に代わって死刑が用いられるようになったのだ。
ナルシッサの夫は仲間達とともに十字架にくくりつけられ、火あぶりとなった。彼女の一人息子も、そして彼女自身もそう遠くない未来に同じ運命を辿る。敵は魔法省だけではなく、群衆だ。家族をヴォルデモート卿や、その配下に殺された人々は容赦なかった。
ナルシッサは人を殺したこともなければ、死喰い人でもない。だが、ルシウス・マルフォイの妻であり、ドラコの母親、ベラトリックス・レストレンジの妹というだけで裁かれる要素は十二分にあった。
心ない魔法省の仕打ちで、彼女は夫の刑が執行されるその場に居合わせた。絶命するまでの数十分間、半狂乱になって夫の命乞いをしていた彼女を助ける者は誰一人いなかった。嵐のような嘲笑の中で、ナルシッサは言葉も涙も失くしてしまった。
そんな彼女に面会にくる者などいるのだろうか。今や、なんの力も持たない、死に瀕した女に会いたがる者が。
ナルシッサが連れて行かれたその部屋は、冷え切った独房とは違って暖かだった。通常の面会室とは違って、脱走や物の受け渡しを禁じるための仕切りもない。
「お待たせいたしました。マルフォイ夫人を連れてまいりました」
恭しく来客に頭を下げた看守に、若い男の声が答えた。
「無理を言って、すまなかった。感謝します。けど、あともう一つだけ、お願いが……彼女と二人で話をさせていただきたいんです」
「は、はあ……しかし」
「彼女をみすみす逃がしたりはしません。何かあれば、僕が全責任を負ってもいい。お願いします」
「あっ、頭を上げてください! ミスター・ポッター、あなたにそんなことをされたら私は……もちろんあなたの仰るとおりにいたしますとも! ささっ、どうぞ頭を」
ナルシッサは濁った目をゆっくりと瞬いた。まるで遠い記憶の彼方から、忘れ去っていた記憶を呼び覚ましているかのようだ。背後でドアの音が鳴った。看守がでていった音だ。だが、彼女はそんなものには気を取られず、ただ目の前にいる男を凝視し続けた。大きな紙包みを腕に抱えた、黒いくしゃくしゃの髪の青年。
「僕のことを覚えていますね、ミセス」
「……ポッター……」
嗄れた声を喉から絞りだしたナルシッサの目には憎しみがたぎっていた。
「よくも…、わたくしの前にこうして姿を現わせたこと。何をしにきたの。わたくしを嘲笑いにきたの」
「わざわざ人を馬鹿するためにこんなところまでくるほど、僕は暇ではありませんよ」
対する男の声も冷ややかだった。ナルシッサの言葉に気分を害したというわけではなく、最初からだ。
「では、なんのご用かしら。【あの方】を二度も死に追いやった英雄ハリー・ポッター様が、わざわざアズカバンくんだりまで?」
「あなたに話があって、きたんです」
ナルシッサは喉を仰け反らせて笑った。
「話! なんの話があるというの。わたくしから夫を、息子を、全てを奪ったあなたが! このみじめったらしいわたくしの姿に満足して、さっさと帰るがいいわ。あなたと口を利いているだけで、吐き気がする」
「シリウスの母親も同じようなことを言いました。血…、ですかね。よく似ている」
ナルシッサはいきなりナイフで突かれたように胸を押さえ、前かがみになった。彼女の眼前で、ハリーは紙包みを破り捨てていった。ナルシッサの目が、飛びださんばかりに大きくなる。
「……アストリア?」
「これはあなたの人形でしょう」
差しだされるままに人形を受け取ると、ナルシッサはまじまじと見つめる。あたかも生まれたばかりの子供が五体満足かを検分する産婆のように。
「僕の妻が、生前シリウスから聞いた話を教えてくれたんです。あなたと……シリウスが恋人だったと」
「そんな…、馬鹿げた作り話を信じたの?」
ナルシッサは唇を引き攣らせた。笑おうとして、うまくいかなかったのだろう。ハリーはくしゃりと頭に手をやった。
「シリウスは少なくとも、あなたを愛していた。だからこそ、その人形をずっと大切にしまいこんでいたんだ。まるでガラスケースの中に入れられていたように、その人形はブラック屋敷の中でただ一つ荒廃を免れていた。
シリウスはあの屋敷で一人ぼっちだった。騎士団の仕事にもろくろく加われずに、あの暗い屋敷で無為な時を過ごしてた。僕の妻は、何度かその人形の置かれた部屋に入っていくシリウスを見たと言っていました。その人形はあなたによく似ている……シリウスは孤独を慰めるために、そうしてあなたの影を追い続けたんじゃないですか。あなたが結婚した後も、ずっと一途に」
ハリーの声が震えだした。
「そのシリウスをあなたは裏切った。クリーチャーがあなたの元を訪れた時、あなたが夫に告げなければ! シリウスがアニメーガスだったことをヴォルデモートに知らせたのもあなたですか!? どうして! あなたを想い続けたシリウスに、どうしてそんなことができたんだ……!!」
「先に裏切ったのは、彼だわ! 私の結婚を知った時、『おめでとう』と……その一言だけを置いて去っていったのはシリウスよ! 一緒にこい、とそう言ってくれたなら、私は……」
鋭い叫びと同時に残り僅かな生気も吐きだしたのか、ナルシッサはへたりと座り込んだ。人形をきつく抱きしめ、その胸に顔をうずめる。すすり泣きが洩れた。
「あなたの父親、が。奪ったのよ…、私のシリウスを……彼がいなくなってから、私…、わたくしも、そしてブラック家も滅茶苦茶になった……」
「あなたもシリウスを愛していたんですね」
声もださずに何度も頷く彼女はまるで子供のようだった。ハリーは彼女から目を逸らし、上を仰いだ。目の端に浮かんだものがキラリと光った。
(2006/11/19)