天の川 - 1/4

 結局ダンブルドアが死んでも、ホグワーツは閉鎖しなかった。何処に危険が転がっているか分からず、親元にいれば安全とも限らない。かえって自分達が狙われた時に学校にいてくれれば、少なくとも子供達の安全は確保できる。それにハリー・ポッターが学校に戻らず、ヴォルデモート卿を倒す旅に出たことは日刊預言者新聞で大きく取り上げられていた。ダンブルドアがいなくなったとはいえ、仇敵ハリー・ポッターがホグワーツを去れば、ヴォルデモート卿にホグワーツを優先して狙う理由はない。であれば、外部からの攻撃に強く、魔法省から手厚く庇護されたホグワーツの方が遥かに安全だと言えるわけだ。
 皆が皆、こんな風に考えたわけではなかったが、九月一日に学校に戻ってきた生徒は、前年度の三分の一ほど。誰一人生徒がこないのではと危惧していた教授陣は、安堵の表情を見せた。
 ジニー・ウィーズリーも戻ってきた生徒の一人だった。彼女はグリフィンドールのテーブルを見渡し、顔を曇らせた。スリザリンのテーブルが大勢の生徒で賑わっているというのに、グリフィンドールは他のどの寮よりも生徒が少ない。不死鳥の騎士団でなくとも、なんらかの形で彼らを助け、ヴォルデモート卿と敵対してきた人々の中にはグリフィンドール出身者が多いせいだ。友人や知り合いがすでに相当犠牲になっただろうとは思っていたが、まさかこれほどだとは…――ジニーは今年になって突然与えられた監督生バッジに目を落とし、溜め息をついた。それが与えられたのは、他に誰も候補がいなかったからだと分かっていた。六年生の女子で戻ってきたのがジニーだけとなれば、選択の余地はない。
 不安顔の一年生を誘導して寮に戻ると、ジニーはすぐさま部屋に向かった。五つあるベッドのうち、四つはカーテンがかかっていない。トランクがたった一つしか置かれていないその部屋は、やけに広々としている。
「……もう誰に隠す必要もないね。あたし一人だけになっちゃったよ」
 つぶやき、ジニーはトランクを開けて着替え用のローブや普段着、下着などをベッドの上にポンポンと投げだしていった。底を掘り起こすと、杖でコツコツとノックする。すると、蝶つがいを軸にしたように、底の片側だけが持ち上がっていく。魔法で底を二重にしていたのだ。その陰からでてきたのは、黒い革表紙のノートだった。随分と薄汚く、真ん中には何か鋭いものを刺したらしい穴が見える。
 ジニーは私物の散乱したベッドの空いた部分に腰かけ、ペットにでもするように優しく表紙を撫でた。
「皆、行っちゃった。ルームメイトも、ロンも、ハーマイオニーも」
「そして、ハリーもだ」
「そう、ハリーも。トム、あなたの【未来】を倒しにいったから」
 ジニーは唐突に目の前に現れた少年を見上げ、微笑した。姿現わし特有の風船を破裂させるような音はない。それ以前にホグワーツでは今なおその魔法は禁じられている。透明マントを脱ぎ捨てたような現れ方とも似ていたが、少年は空手だ。そして、何より奇妙なのは少年の身体がゴーストのように透けている点。青白い光が漂っており、風でも吹けば消えそうなほどに弱々しい。生身の人間ではなく、ホログラムなのだろうか。
 少年は大きな身体を屈めて、ジニーの顔を覗き込む。
「一緒に行きたかったんだろう。どうして、行かなかったの?」
「ハリーがそう望まなかったから。彼とつきあってたら、あたしが危険にさらされる。あたしが死ぬのを見たくないって」
「そう……賢い選択をしたね、ポッターは。【ヴォルデモート卿】なら必ずそうする。君がポッターと別れなければ、君を捕らえて囮に利用しただろう。それか、君をむごたらしく殺して、ポッターにダメージを与えたか……どちらにしろ、別れてよかった。君のそんな姿、僕も見たくないからね。もう二度と」
「そう。どうして?」
 ジニーはどうでもいいことだけど、と言いたげに足をぶらぶらさせながら笑いかけた。まるで子供のように無邪気に、残忍に。少年はひざまずいて、ジニーに手を伸ばした。期待を込めるように、おそるおそると。その手が頬を突き抜けてしまうと、彼の目に微かなかげりが生じた。
「君は僕の大事な友達だからだよ、ジニー」
 ジニーと、この少年が出会ったのは、今から五年ほど前になる。ルシウス・マルフォイの巧妙な罠にはまり、ジニーの手元に転がり込んできた日記帳には【例のあの人】――ヴォルデモート卿の過去の【記憶】が潜んでいた。それが、この少年、トム・リドルだ。リドルはジニーの心を惹きつけ、魂を少しずつ奪い取っていくことで、彼女の身体をも支配した。
 ジニーを操り、バジリスクを使って【秘密の部屋】事件を引き起こしたリドルは、ハリーとの対決に敗れて消滅した。亡きダンブルドア、そして彼と戦った当のハリーでさえもおそらくはそう信じているだろう。
 けれど、実際はそうではなかった。媒介の損傷はリドルを著しく弱らせたものの、バジリスクは毒蛇の王。蛇を操るスリザリンの一族の眷属であり、その毒をもって、より力のある主を殺すことはできなかった。そうして生き永らえたリドルは、マルフォイ家の力を借りて再びジニーの手に戻ってきたのだった。
 何故自分を殺しかけた日記帳を、ジニーがすぐに手放さなかったか。【秘密の部屋】の事件の真相はここにある。リドルにとって予想外だったのは、なんの取り柄もない【記憶】の彼自身よりも年下の少女に惹かれてしまったことだ。彼の計画が進むにつれて衰弱していく少女を見殺しにできなかったことが。
 リドルはわざとハリー・ポッターに敗北する道を選ぶことで【秘密の部屋】の事件を円満に終わらせてジニーを救った。
 騙されていたとはいえ、最後に自らを犠牲にして自分を救ってくれた人のことをジニーは憎めなかった。例え、恋人のハリーが【ヴォルデモート卿】を殺す宿命を持っていようとも。
「あたしにとっても、あなたは大事なお友達よ、トム。これからも、この先もずっと」
 触れられない身体に手を伸ばし、空を抱き締めながらジニーも同じ言葉を返した。