その道の果て

 夕焼けの色濃い教室の中。ツギハギだらけのみすぼらしい風体の男が、公園を散歩しているかのようにゆったりと窓際に近づいていく。おもむろに身を乗り出すと、少しだけ強くなってきた風が髪をかき上げ、微かにシワの入った額をさらけだす。肌を見れば四十前後といったところだが、病人を思わせる疲れきった顔や、まばらに生えている白髪が老人を思わせる。
「君が何故残されたか、分かるかな。ミスター・マルフォイ?」
 外を眺めたまま、彼は言った。相手は教壇の真ん前にかけた少年だ。ふてぶてしく腕を組み、何も書かれていない黒板を睨みつけている。マルフォイもまた視線を合わせず、吐き捨てるように言った。
「さっぱり分かりません…――先生」
 尊敬に値しないが、教職に就いている以上そう呼ばざるを得ないだろう。ドラコ・マルフォイが思いだしたように先生とつけ加えた心理だった。
 だが【先生】は怒った風には見えなかった。振り返りもせず、ただ「そうか」と一言つぶやいたきり押し黙った彼に、ドラコは不審の目を向けた。
 廊下の喧騒が、遥か遠くにあった。もう授業が終わってから、かれこれ三十分以上は経っている。時計の針の音が責めるように鳴り立て、マルフォイは何度かそちらに目を移してはしかめっ面をし、重苦しい沈黙が破れるのを待った。催促するようにかかとを床に打ちつけてもみたが、変化はない。
「あー……ルーピン先生? 話がないのなら、僕はこれで失礼したいのですが。夕食までにすまさなければならない用事もありますし」
 右腕のギブスをさすりながら、ドラコが言った。ただの口実ではない。怪我人や病人を自分の監視下に置かなければ気がすまないマダム・ポンフリーに呼びだしをかけられていたのだ。
 ドラコは数日前、魔法生物飼育学の授業でヒッポグリフに襲われ、怪我を負った。ヒッポグリフの爪には少量ながら毒が含まれており、血小板の働きを弱めてしまう。軽く掻かれた場合でも、放っておけば血が止まらず大事に至ってしまうのだ。毎日ギブスを外し、傷口を洗浄しながら経過を観察していく治療に、ドラコはすでにうんざりしていた。
 復習の時間が減ってしまう上に、クィディッチの練習もできやしない。これ以上、大事な時間を減らしてなるものか。
 ドラコの尖った声とは対照的に、ルーピンの声はあくまで穏やかだった。
「今日の授業、君はどう思った?」
「どうって」
 どうもこうもない。たかが真似妖怪と戦っただけじゃないか。
 先を争うようにボガートと戦いたがった同級生達を思いだし、ドラコはフンと鼻を鳴らした。教師の人気取りにまんまと乗せられた彼らが憎かった。本当に優れた教師は生徒のご機嫌をとるようなことはしない。教科書をしまわせて、いきなり実施訓練をさせるなんて。おまけにグリフィンドールの授業はスネイプ教授を辱めるような内容だったらしい。
 父親の古くからの友人であり、何かと目をかけてくれるスネイプのことを、ドラコは憧れの目を持って見ていた。それだけに、一層この乞食のような貧相な男に嫌悪感を持ったのだ。
「君と向き合ったボガートが変身したものが、私には意外だったんだ」
「そうですか」
 ルーピンがようやく振り返った。逆光で顔はよく見えない。
「黒装束に身を包んだ魔法使い。君に向かって杖を振り上げた時に見えた。黒い髑髏の印がね……」
 ドラコは寒気を感じた。窓から入ってくる風が、グッと冷え込んだようだ。
「あの印がなんなのか…、君は知っているかい?」
「知りません、先生」
 早口に言った。もちろん、知っている。去年、他ならぬ父親の左手に毒々しい印が刻まれているのを目の当たりにしたのだから。
 父のルシウスがマグルを軽視していること、マグルに肩入れするウィーズリー家のような連中を嫌っていることは知っていたが、まさか【例のあの人】の信望者とまでは思わなかった。死喰い人ということは、確実にその手は血に濡れている。
 そして、殺人者の印はいつか自分の身にも刻まれるだろう。【例のあの人】が復活すれば…――それは十年後かもしれないし、明日かもしれない。だが、確実にその日はやってくるに違いない。
「死喰い人の印だ。君が恐れているのは死喰い人だ。そうだろう?」
「あんたには関係ないだろうッ!! 僕が何を恐れようが、僕の勝手だ! カウンセラー気取りか? だったら、おあいにくだ、僕にはそんなもの必要ない。あの情けない英雄ポッター様でも看てやればいい!」
 ドラコはハッとして口を押さえた。グリフィンドール贔屓のこの教師は、自分から減点しようとわざと挑発するようなことを言ったに違いない。けれど、一度だした言葉を撤回したくはなった。そんなみっともない真似はできない。
 むっつりと黙ったドラコに、ルーピンは笑った。親しげな目つきに、ドラコは戸惑いと苛立ちを感じた。
「君の母親はナルシッサだったね。やっぱり血は争えない。彼に似ている」
 ルーピンの口から母親の名がでたのは意外だった。それに【彼】――今の口ぶりからして、ルシウスではない。
「時間をとらせてしまって悪かったね。つい昔を思いだして……君は僕の友人だった男と何処か似ていたから。一度話してみたかったんだ」
 わけが分からずにルーピンを見た。が、まじまじと見つめようと、その顔に答えが書いてあるわけでもない。ドラコは視線を外して、教室の外に出て行った。引きとめる言葉はなかったが、ルーピンの視線は背中に感じていた。ダンブルドアと同じ、全てを見透かしているような目――ドラコはかぶりを振った。
 恐ろしいのは死喰い人ではない。いつか死喰い人になる自分自身だ。

(2007/05/13)