眠り姫の王子さま

 まぶたの裏が白ばんでいる。もう夜明けなのだろうか。随分長いこと眠っていた気がする。身体の節々がこわばっていて、痛い。起き上がろうと関節を曲げた瞬間、じわりと熱いものが噴き上げてくるようだった。呻き声が耳に入り、ペネロピーはギョッとした。今のかすれた声が自分の声だろうか?
「ペニー!」
 あまりのまぶしさに開いた目を反射的に瞑ると、目の前に影が落ちた。ガバッと覆いかぶさってくる重みにギョッとしたのも束の間、なつかしい声が話しかけてきた。
「ペニー、よかった……このまま目覚めないんじゃないかって、心配だったんだ……」
「パー…、シー……?」
 つきあってから大分経つというのに、バレたら弟達にからかわれるからと言って、パーシーは滅多にこんな風に抱きついてきたりはしない。彼に一体何があったんだろう。天変地異かしら、とペネロピーはぼんやりと思った。
 パーシーの両手が、ふわりと頬を挟み込む。形を確かめるように、ゆっくりとさすりながら彼は笑った。今にも泣きだしそうな笑顔だった。
「もっとよく顔を見せて。何処もなんともない? 苦しくないかい?」
「大丈夫……だけど、ねえ? どうして私、こんなところにいるの? ここ、医務室よね?」
「覚えてない? 襲われたんだ……【秘密の部屋】の化け物に」
「襲われた……私が……?」
 ただオウム返しすることしかできなかった。よく覚えていない。確か…、そうだ、図書室にいたはずだ。クィディッチの試合の直前に、マダム・ピンスに図書室の施錠を頼まれて。いつまでもグズグズしているハーマイオニー・グレンジャーが息せき切って駆けてきて……そう、その後ろに大きな影を見た気がする。
「私…、石化してたの? いつから……ううん、今は何月何日なの? 事件は? ダンブルドアはっ? どうなったの、ねえ? ホグワーツはどうなるの? 犯人は捕まったの?」
 パーシーの顔色がサッと変わった。言おうか言うまいかを迷っているのか、唇を動かしては首を振る。
「事件は解決したよ。ハリーが【秘密の部屋】の化け物を倒してくれた……けど」
「けど?」
「ジニーが……」
 重々しくつぶやき、パーシーはカーテンを開けた。
 入り口に一番近いベッドの周りに、大人数が詰めかけていた。パーシーの家族だ。特徴的な赤毛で、すぐに分かる。
 どうして彼らがここに? ジニーが、とつぶやいたきり押し黙ったパーシーを見て「まさか」とペネロピーは立ち上がった。石化の硬直がまだ完全には解けていないのか、足は借り物のように感覚がない。見るに見かねたパーシーに半ば抱きかかえられるような形で近づいていくと、力なくベッドに腰かけているジニーの姿を認め、ペネロピーはホッとした。殺されてしまったのかと思ったのだ。
 けれど。
「ジニー……、ジニーちゃん。聞こえている? ママ達はもう帰らなければならないの……ね、聞こえてる? 答えて?」
 脱力した手を握り締めて言っているのは母親だろう。ひざまずいて、うなだれたジニーの顔を覗き込んだ目が潤んでいる。ジニーは自分に話しかけられているとは思ってもいないのか、無言だ。表情も変えない。ウィーズリー夫人はああ、と嘆いたかと思うと、髪を振り乱した。
「駄目よ、駄目……アーサー! 連れて帰りましょう……ジニーをこのままになんかしておけないわ。かわいそうに……あれだけ怖い目に遭ったんですもの。こんな風になってしまうのも無理ないわ。学期の途中だってかまわないわ、ね? そうしましょう?」
「そうだね、君の言うとおりだ。その方がいいだろう……ジニー? 一度家に帰ろうね。一足早い夏休みだ。ゆっくり休んで、新学期にまたここに戻ってくればいいから」
 微かに揺れた髪で、首を振ったらしいことが分かった。か細い声が、ようやく答える。
「……あたし、残るわ。大丈夫……もう、全部終わったから」
「ジニー、無理はしなくていいのよ。ママ達と一緒に帰りましょう、ねっ?」
「……ハリーがやっつけてくれたから。もう【あの人】はいないわ。そうでしょ? だから、いいの……あたし、残る」
「ジニー」
「残るの」
 弱々しいが、同じ言葉を繰り返す。心配そうに見守るウィーズリー兄弟達と同様に、ペネロピーも口を利けなかった。腕をクイと引かれ、ハッとする。パーシが詫びるような目で「向こうへ」と言っていた。
 廊下にはあまり人気がなかった。目覚めの時は朝方だと思っていたが、夜だった。多分、石化していた期間は視覚も完全に遮られていたから月明かりでもまぶしかったのだろう。
 パーシーが口を開いたのは、医務室の明かりが廊下の角に消えてからだった。
「ジニーはさらわれたんだ。スリザリンの継承者……例のあの人の分身に【秘密の部屋】に連れていかれて殺されかけたんだ」
 塀を身軽に乗り越えて、中庭に降り立つと、彼は花の生い茂った低木の方に歩いていった。そこは午前中の早い時間くらいしか陽が差さないためか、他の木々よりも成長が遅い。
 石化していた期間の記憶がまるでないペネロピーは、緑だけの殺風景だった低木が色づいているのを見て驚きを覚えたと同時に、不安になった。随分長いこと石化していたのかもしれない。一旦は塀に手をかけたペネロピーだったが、塀と塀の間の通路を通ってパーシーの後を追った。恋人を待つパーシーは憂鬱そうだった。ひどく疲れて、五歳も老けてしまったような感じだ。
「ごめん、ペニー。正直なところ、ここ数日、僕は君のことを考える余裕がなかった。ジニーが心配だったんだ。
 もう随分前から痩せて、元気がないことには気づいてた。多分、子供によくあるようなくだらない悩みが原因だろうなんて思ってたけど、でも……僕は何もしてやれなかった。ジニーは大分前から【あの人】に操られて事件を引き起こしてた。それに薄々と気づいて悩んでたのに、何も気づいてやれなかった。ジニーがロンに悩みを打ち明けようとした時も、僕達がつきあっていることを洩らされるって勘違いして、邪魔したんだ。最低な兄貴だよね、僕は」
「そんなこの世の終わりみたいな顔をして言わないで、パーシー……」
 パーシーは自嘲するように笑った。
「子供の頃、ビルにばかりなつくジニーに意地悪を言って、泣かせたことがあったんだ。僕がジニーを泣かせたのはそれ一度きりだけど、すごく嫌な気分だった。ジニーのこと、大事に想ってたのに傷つけてしまったって。もう絶対ジニーのことは泣かさない。危ないことがあれば身を挺してでも守ってやろうって……そう思ってたのに」
 パキン、と乾いた音がした。パーシーの拳の中には、細い枝があった。
「最低な兄貴だ」
 同じ言葉を繰り返す彼が、不意に月を見上げた。光る目尻に気づき、ペネロピーは彼の手を取った。はたりと落ちた枝の代わりに力強く握り締められ、痛いほどだった。感情を律する彼の心そのものを表しているかのように。

(2006/05/16)