イースター休暇明けのホグワーツ特急は帰省していた生徒達で賑わい、どのコンパートメントも人であふれ返っていた。友達との再会を喜び、休暇中に何処そこにいってきたといった話に花を咲かせていた。
だが、先頭車両にほど近いそのコンパートメントは違った。そこにはたった二人だけしかいない。車窓に寄りかかるようにして、白く、荒涼とした眺めに見入っているのはルシウス・マルフォイだ。透けるような銀髪に、陶器のように白くなめらかな肌、端正な顔立ち。ただ座っているだけでも気品を感じさせる。
彼の横には二本の大きな足が揺れている。向かい側の座席にかけた少年のものだ。ルシウスの白さとは対照的に日に焼けた肌は黒光りしていたし、元は黒かったらしい黒髪も色あせ、灰色がかって見える。すらりとしたルシウスの側にいると、引き締まった身体の精悍さが際立った。ルシウスの幼なじみ、ワルデン・マクネアだ。両親を亡くし、ホグワーツ入学前からマルフォイ家に引き取られて育った彼は、ルシウスにとっては兄弟のように近しい存在でもある。
腕組みをし、椅子にゆったりともたれかかりながら、ワルデンは目を瞑っていた。他に誰かいれば、彼は眠っていると勘違いしたに違いない。けれど、そうではなかった。ルシウスか汽車の音にかき消されてしまいそうなほど小さな溜め息を吐いた瞬間、彼はカッと目を見開いたのだ。その目にまどろみの影はない。
「具合が悪いのか?」
ルシウスは突然声をかけられても、少し肩を竦めてみせただけだ。
「……まあな。まだ傷が痛んで、気分が悪いんだ。お前は?」
「痛みはひいた。俺の家系は代々処刑人だったからな。怨みのこもった呪いや闇の魔法に対する耐久力に関しては、他の奴らよりも高いんだろう……大丈夫か」
紫がかって見える唇を指されても、ルシウスは素っ気なく頷くばかりだった。
「すまないな、ワルデン」
窓枠に片手を置いたまま、淡々と言う様はとても謝罪しているようには見えない。その目の陰りさえなければ、だが。ワルデンは微笑した。
「何がすまない、なんだ?」
「マルフォイ家に引き取られなければ、お前はこんな制約を受けずにすんだろう。父上がお前を引き取る気になったのも、僕のせいだからな」
こんな制約――そう、今度の休暇でこの二人の少年には枷がつけられたのだ。それは鉄球つきの手錠などよりも遥かに重く、自由を妨げるものだ。
近年軽視されがちな純血を擁立し、魔法界からの穢れを祓う。少しずつ純血魔法族の中に浸透してきたこの思想を唱えているのは、ヴォルデモート卿という男だった。彼はスクイブの増加がマグルの血により、魔法使いの血が汚染されているからだと声高に触れ回り、賛同者を増やしていった。前身の知れぬ彼が矜持の高い純血魔法族から信用を勝ち取れたのは、ルシウスの父アブラクサスの後ろ盾のおかげだ。
ヴォルデモート卿はホグワーツを創設した偉大なる魔法使いの一人、サラザール・スリザリンの子孫だという。彼が祖先と同じく非常に難解な蛇語を解するパーセルマウスであることを知ったアブラクサスは、彼を盛り立てようとした。マルフォイ家はまだイギリス魔法族の間では歴史が浅く、王族のように振る舞うブラック家との力の差は歴然だった。
ヴォルデモート卿に肩入れし、彼が魔法界に君臨した暁にはマルフォイ家の地位も確固たるものになる――アブラクサスは野望のためにためらいもせずに息子を、養い子を差しだした。
蛇と髑髏を象った忌々しい印を刻み込まれることで、計り知れぬ闇の力を得る。そして代償に自由を失うのだ。この印は下僕の証なのだから。
同じ年頃の、純血の少年。アブラクサスが寄る辺のないワルデンを引き取ったのは息子を思う親心からではない。有能な手駒を増やし、ヴォルデモートの信頼を勝ち得るためだったのだ。それが、今度の休暇ではっきりと分かった。
ワルデンは足を床に下ろすと、姿勢を正した。
「これは俺が納得した上で受け入れたんだ。気にするな。
マルフォイ家に引き取られなければ、俺はとうに野垂れ死んでいた。誰が忌まれた血筋の子供の面倒を見てくれる? 親切を大盤振る舞いしようと言う奴はいるが、それを口先だけでなく実践できる奴がどれだけいる? マルフォイ様だからこそ、できたことだ。感謝しているよ。
おっ、車内販売だ。何か買うか?」
ワルデンはいつもこうだ。深刻な会話の最中、いきなり違う話題を振ってきたりする。それが自分への気遣いだと知りつつも、ルシウスは首を振った。
廊下に飛びだしていったワルデンはなかなか帰ってこない。開け放たれたコンパートメントの外からは、何やら話し声が聞こえてきた。販売員の魔女ではなく、男の声だ。同級生にでも会ったのだろうとルシウスはあまり気に留めず、再び窓の外に目をやった。いまだ春の訪れぬ風景は、ヒースで覆い尽くされたそれよりも荒涼とした印象が強い。
ワルデンは戻ってくるなり、いきなり頬に冷たいものを押しつけてきた。ジュースの瓶を手に取りながら、ルシウスは苦笑いを浮かべた。
「乗り物酔いじゃないのに」
「まあ少しは効き目があるかもしれない。試してみろよ。傷が痛む時はあたためるなって言うし、身体を冷やせば少しは鎮まるかもしれない」
「戻ってくるのが随分遅かったな。誰かと会ったのか?」
ジュースのフタをひねりながら訊くと、
「ああ。今、言おうと思ってたところだ。ルックウッドから聞いたんだが、プルウェットが結婚するらしい」
「へえ? あの堅物がとうとうねえ……ベラトリックスとか?」
数百年の歴史を誇るプルウェット家当主の婚姻ともなれば、純血であれば誰でもいいというわけにもいかないようだ。財力もあり、古くから栄えている一族の娘というと限られている。ルシウスがブラック家の令嬢を真っ先に思い浮かべたのは、二人の年齢が同じくらいで、以前ベラトリックスがギデオン・プルウェットを追いかけ回しているという噂を聞いていたからだ。
ワルデンは首を振った。
「ギデオン・プルウェットの話じゃない。モリーだよ」
ルシウスの表情がサッとこわばった。ワルデンの目は哀れみを帯びていた。手負いの獣を楽にしてやるため、一思いに殺してやらねばならない。そんな表情だった。
「モリーが、アーサー・ウィーズリーのところに嫁ぐんだ。卒業次第」
「そうか。よく家族が許したものだな。ウィーズリーは純血とはいえ、血を裏切り続けてきた一族だというのに」
「言いたいのはそんなことじゃあないだろう、ルシウス。お前は彼女のことを」
「黙ってくれないか、ワルデン」
「……悪かった。お前が知った時、平静でいられるかが心配だった。前もって覚悟しておいてほしかったんだ」
ルシウスは労わりの言葉を撥ね退けてしまった自分の冷酷さに嫌気が差したが、謝ろうという気にもなれなかった。想い人に関することは例え親友からでも何も言われたくなかった。放っておいてほしかったのだ。
ルシウスがモリー・プルウェットと初めて会った時のは、入学する年の、ホグワーツ特急の中でだ。第一声は今でも忘れられない。
――何馬鹿やってるの!
窓を開けて外を眺めていたら、いきなり抱きつかれて肝を冷やした。座席に立ち膝をして、腰の辺りまで身を乗りだしていたからだ。衝撃で窓の外に落とされるかと思った。危ないでしょうと叫びながら身体にしがみついてきた少女が、自分より二学年も上とは思わなかった。あどけない顔立ちをしていたし、その頃からルシウスの背丈はモリーよりも高かった。
同学年と思えばこそ、ルシウスはかなり辛辣な口調でモリーに食ってかかった。激しい言い争いになり、なんとかワルデンに押し留められ、その場は収まった。
出会いがそういう風だっただけに、二人の仲は最悪だった。モリーの弟のフェービアンが事あるごとに突っかかってくると、必ず何処かからモリーが飛んできて、大事な弟の手から喧嘩を奪い取ってしまうのが常だった。ルシウスが何か些細な悪戯をしでかすと目ざとく見つけ、教授達に告げ口に走る。
なんて女だ、とルシウスはそのたび呆れると共に賞賛の念も禁じえなかった。寮も学年も違う奴をここまで追いかけ回すなんて、イカれてる。
学年が上がり、モリーが監督生になってからが特にひどかった。ルシウス専属の監督生かと思うほどに減点しまくった。スリザリン生は何故グリフィンドールの暴虐を許すのかと不平を口にしていたが、教授達は職権乱用だからとモリーを罰しはしなかった。ルシウスの苛立ちは他の生徒達の比ではなかった。気に入らないからと監督生の権限を最大限に利用し、教授達に媚を売ることも忘れない、陰険な女。
ルシウスは三年生にしてすでに呪いの大半を――特に闇の魔術には精通していた。父親に手ずから教え込まれたのだ。
あいつに一度決闘を申し込んで半殺しにしてやる。そうでもしなきゃ、あの女の鼻っ柱は折れない。
ある日、ついにその機会がやってきた。深夜に寮を抜けだし、校内を散策していた時に偶然モリーの姿を見かけたのだ。杖明かりを灯らせ、校内の見回りをしていた。ルシウスは回り込んで攻撃してやろうと階段を上がりかけた。その瞬間、ギョッとした。踏むべき階段がそこにはなかった。その階段は深夜の十二時になると消えてしまう――そのことを失念していたのだ。鋭い悲鳴を上げ、両手を振り回した。その片手がなんとか床をつかんだものの、じっとりと浮かんだ汗のせいですべる。チラリと下を見て、ルシウスは呻いた。薄暗い空間がぽっかりと空いた穴のように見える。杖が使えれば落ちたところでどうってことはないが、このまま落ちたら骨折するか、運が悪ければ死ぬ。
誰か、助けてくれ…――声にでたかどうかは分からない。けれど、けたたましい足音と明かりが近づいてくる気配を感じた。確かめる間もなく、ずるりと指がすべり、ついに床から離れてしまった。
身体が一瞬静止したように感じた。ついで重力に逆らい、身体が浮き上がる。傾いだ身体が引き戻され、モリー・プルウェットのこわばった顔が見えた。床に降り立った途端、彼女に平手打ちされた。
――何馬鹿やってるの!
以前言われた言葉と、全く同じ言葉だった。
――暗い中、ほっつき歩いて危ない目に遭って! あなた、そんなに死にたいの!?
感謝の気持ちが湧き起こる間もなく叱咤され、ルシウスは気分を害した。お前にそんなことを言われる筋合いはない、助けてくれなんて頼んでなかった。そんなことを言ったと思う。すると、モリーの目が燃え上がった。
――私がいつもあなたを見張るのはなんでだと思う!? 目が離せなかったのよ! いつも危険なことばかりして……規則を少しも守らないで禁じられた森にいく、開かずの部屋に入る、決闘をする……!! ここはただ楽しい学び舎じゃないの、危険だってつきまとってるのよ! あなた一人が死のうとするのは勝手よ! でも、遺された家族がどんな気持ちがすると思う!? 友達は!? ちょっとは考えて行動なさい!!
目に涙まで浮かべてそう言い捨てると、モリーは踵を返した。ルシウスは呆気にとられて彼女の後ろ姿を見ていた。
ルシウスはそれまでモリーが自分のことが嫌いだからしつこくつきまとってくるのだと思っていた。彼女の怒りが、まさか自分への心配からだとは思ってもみなかったのだ。
ルシウスには物心ついた頃から母親がいなかった。死んだと聞かされていたが、幼い彼を残してマルフォイ家をでていったという噂も聞いたことがある。アブラクサスは必要なもの、ほしいものはなんでも最上の物を与えてくれたが、息子に対してはほとんど関心を持っていないようだった。心配してくれるとすれば、兄弟のように育ったワルデンただ一人だった。
それを赤の他人が。
ルシウスはそれからもモリーに些細なことで噛みつかれたが、もう以前のように腹を立てることはなくなっていた。何か悪さをして、彼女の声が飛んでくると嬉しくなった。好意を自覚するまで、そうはかからなかった。モリーにはアーサー・ウィーズリーという恋人がいるともっぱらの噂だったが、その頃にはホグワーツを卒業してしまっていたから気にもしていなかった。ルシウスにとって彼女の側にいない恋人など、いないも同然だったのだ。
それが今になって障壁になろうとは。
想いを打ち明けてはどうだろう。今のうちにマルフォイ家の力を使ってアーサー・ウィーズリーを僻地に飛ばしてしまえばいい。彼女はおそらく追おうとするだろうが、プルウェット家の誰もが――アーサーと親しいギデオンを除いて――皆が結婚に反対していることだろう。遠方にやれば、勝ち目はある。きっと。
駄目だ。コレを受け入れた以上、彼女を巻き込むわけにはいかない。忌まれた人生に関わらせるわけにはいかない。
痛みだした左腕を、ルシウスは血がとまらんばかりにきつく握り締めた。父親が憎くてならなかった。枷をはめた、父親。けれど、何よりも憎かったのは進んで手を差しだし、拘束された自分自身だ。
汽車は遠い地を目指して、なおも走り続けていた。
(2006/06/11)