留まる理由 - 9/10

 ジニーはひたすら刻み続ける時計の音に耳を澄ましていた。約束の時間が遅々と迫ってきている。気を落ち着かせようと開いた本の内容は少しも頭に入ってこない。
 腹の痛みは時間が近づくにつれて増していく。昼食にいこうと友達に誘われたが断った。こんな状態で食べ物が喉を通るはずがない。
 針のむしろに座らされているような長い時間が経ち、ようやく一時十分前になった時、ジニーはホッとして立ち上がった。緊張のあまり、額に汗が浮かんでいた。誰にも声をかけられないように目を伏せたまま談話室を抜けだす。
 廊下を歩く生徒もいつもより少ない。授業もないし、まだクィディッチシーズンにもなっていないから皆ゆったりと自寮でくつろいでいるのだろう。
 図書室も同様だった。学期が始まって間もない土日にこんなところに入り浸るのは、よほどの勉強家だけだ。
 マルフォイはもう来ているのだろうか。ジニーは周りを見ながら、ゆっくりと彼の姿を探す。
 途中、一秒たりとも無駄にはできないとばかりに羽ペンを動かすハーマイオニーに気がついてドキリとした。気づかれないようにそろそろと通りすぎたが、彼女は山積みの本に没頭していたから、そんな気遣いはいらなかったかもしれない。
 禁書の棚から少ししか離れていない棚の陰にマルフォイはいた。窓を背に軽く寄りかかっているため、プラチナ・ブロンドの髪が光に透けるように輝いている。
 クラッブとゴイルの姿は何処にもない。ここにくるまでも見かけなかった。これは友達にも話せない重大な【何か】を言おうとしているということか。
 近づいていくと、彼は手に持っていた本を閉じて億劫そうに顔を上げた。青灰色の目がすぼまる。
「やあ、やっときたな」
「一体なんの用なの?」
 喉を潤すと、ジニーはしっかりとした声で訊いた。マルフォイの前で無様な姿をさらすわけにいかない。
 彼はフンッと鼻でせせら笑う。
「不愉快な顔に、声だ。勘違いするなよ、ジニー・ウィーズリー。僕だって君と話してて楽しいわけじゃあないんだ。これだって僕個人の用じゃない。頼まれたんだよ、これを渡せってね」
 無造作に差しだされた黒いノートを怪訝な顔で受け取り、それが何なのかに気づき、ジニーは悲鳴を洩らさないように咄嗟に口元を押さえた。取り落としたノート――いや、日記帳がバサリと音を立てる。
 見間違うはずがない。そう、それはあの日記だった。バジリスクの牙に深々と貫かれたはずの、リドルの日記。
「う……そ……」
 マルフォイが見ているのも忘れて、ジニーは力なく崩れ落ちる。震える指先を伸ばし、おそるおそる触れてみた。ざらりとした感触と冷たさ。あまりに懐かしく、表紙を撫でる。
 何処にも凄惨な戦いの跡は見られない、一年前と全く変わらぬその姿。
 驚きの次に恐怖が、そして嬉しさが…――様々な感情がいっしょくたに混ざって溶けあう。
「プレゼントは気に入ってくれたみたいだねえ」
「どういう……つもり?」
 気取ったその声に、ようやくマルフォイの存在を思いだす。ジニーは日記を握りしめて立ち上がった。平静を装うのは難しかった。
「どういうつもりも何もないさ。頼まれただけだと言ったろう?」
「返すわ。あたしは……あたしが死んだとしても、もうあんな事件は起こさない。こんな日記……もう、いらない」
「君が受け取ることが条件なんだ。返されたって困る」
「あたしは」
 なおも言いかけた時、ジニーはマルフォイの顔にいつもの皮肉な笑みがないことに気がついた。真摯な目は苦しげで、責務と己の意思との間で揺れ動いているように見えた。ジニーの当惑の視線を受けると、すぐに目線を逸らしてしまったが。
「いらないというなら君が処分しろよ。これはもう君のものだ。どうしようとかまわない」
「あなたはこの日記を処分しろって勧めてるみたいだわ。また何か企んで……」
 じろりとマルフォイが睨みつける。その激しさにジニーは口をつぐんだ。
「余計な好奇心は身を滅ぼす。愚かな君には去年経験しただけでは足りなかったのか? 穢れた血の友人を失いたくないなら、少しは気をつけろ」
 マルフォイはほんの一歩でジニーに近づく。殴られるのかと思わず身を退いたジニーの横を、なんのことはない。彼は通りすぎていっただけだった。
 その後ろ姿を釈然としないまま見送ると、何か思いだしたのか、不意にマルフォイは振り返った。
「僕がこれを渡したことを黙っていれば、アレをバラすつもりもない。これで終わりだ。もう君に用はない」
 長いローブを翻すと、今度こそマルフォイは去っていった。
 一体どういうつもりだったんだろう。彼の真意を量りかねて、ジニーは両手に残されたままの日記帳を握りしめる。
(これから、どうしよう)
 もう一度会いたかった。けれど、会えるとは思ってなかった。それなのに眼前に選択を突きつけられた。会うか、会わないか。

     *****

 ジニーは図書室をでて、足をとめた。行き先を決めかねて、廊下の端から端へと視線を漂わせる。この足で校長のところへいった方がいいだろうか。
 向かった先は結局グリフィンドール寮だった。
 ジニーは背を丸めて、自分の身体で日記帳を庇うようにする。談話室では双子の兄達がまた馬鹿なことをしていて、ジニーがそっと入っていっても誰も気に留めなかった。
 部屋には同室の子は誰もいなかったが、寝台に備えつけられた天蓋のカーテンを引いて自分の姿を覆い隠す。狭い空間に一人きりになるとホッとした。
 日記帳を開いて、パラパラとめくっていく。
(ああ、同じだわ)
 去年【彼】と出会った時と同じ。トム・M・リドルの名だけ刻まれた日記帳をゆっくりとめくっていく。
 最後のページまでめくってしまうと、ジニーはクスッと笑いを洩らした。
(馬鹿みたい)
 一体何がしたいんだろうと自身に問いかける。もう一度彼がでてきてくれるとでも思ったのだろうか――まさか! 【記憶】の彼はとっくに消されてしまったし、その残骸が修復されただけに決まってる。マルフォイがこれを渡してきたのだって、きっと嫌がらせをしたかっただけだ。
 もし、まだこの日記に怪しげな力がひそんでいたとしても、ダンブルドア校長に頼んで今度こそ完璧に消してもらおう。もう、あんなことを繰り返さないように。
 そして、彼との繋がりは全て断たれる…――
 白いページに小さな染みが生じる。それが自分の流す涙だと気づくと、新たな涙が湧きでる。
「好き、だった……トム、あたし、あなたのこと……本当に好きだったの……」
紡いだのは無意味で空虚な言葉。涙が後から後から頬を滑って落ちていく。
 もう彼はいない。いなくなってしまった。
 例え「馬鹿な子」と嘲われるだけだとしても、答える相手がいないのは寂しい。たまらなく寂しい。
《僕は今でも、君のことが好きだよ。ジニー》
心の染み入るような優しい声。
 ジニーは目を見開き、日記帳を見た。涙の跡が淡い小さな光となり、次々と蛍のように飛びだしていき、一つの大きな光になる。光は人の姿を形どり、そしてそれはたった一度だけしか見たことのない人に似ていて…――
「……トム?」
信じられない思いで訊いた。