留まる理由 - 8/10

 ひどい顔…――ジニーは鏡の前で髪を梳かしながら、くまの浮かんだ顔を見る。今日はマルフォイと約束した土曜日だった。彼が何を言ってくるのか不安で、ただの一睡もできなかった。
 二つに分けた髪を手早くみつあみにしていくと、顔を洗う。冷たい水が顔を打つたび、少しずつ心が引き締まっていく。水の冷たさは湖での誓いを呼び覚ましてくれた。
 決して彼に弱みを見せるわけにはいかない。むざむざつけ入れる隙を与えるわけにはいかない。
 ズキリと痛む腹に両手をやって、きっちりと顔を上げる。
 マルフォイに従うのは、これ一度きりだ。後は何を言われても無視する。去年のことをバラされて、皆から嫌われても…――ギュッと手を握り締めたまま、ジニーは部屋をでた。戦いに赴く戦士のような厳しい顔つきで。
 土曜の朝はゆったりとしていて、まだ談話室には数人しかいなかった。おはようを言って隅の椅子に座ると、壁にかけられた時計を見上げる。六時だ。あと、たったの七時間しかない。
 胃の辺りがさっきよりも疼きだした。汗がじわりとにじみでてきて、なんだか気持ち悪い。
「おはよう、ジニー。今日は本当に早いね」
「ハ…、ハリー、おはよう」
 顔を上げると、思いがけず憧れの人が間近にいてドキリとした。ハリーはちょっと目を開いたが、何も言わずに隣りの椅子に腰かけた。
「ロンは? まだ寝てるの?」
「ロン? ああ、うん。昨日は皆でこっそり枕投げをやっていたから、寝るのが遅くなって――ああ、これパーシーには秘密だよ――まだ、ぐっすり寝てる」
「そうなんだ……」
 流れる沈黙にジニーは何度も口を開きかけたけれど、結局それ以上何も言えないままハリーの顔を盗み見ていた。
 同じ寮とはいえ学年が違うから、ハリーをこんなに間近で見るのは久しぶりな気がした。恥ずかしさから、どちらかというと遠くから見てきたハリーが、彼の方から隣りにきてくれたことに沈んだ気分が少しだけ浮上した。
 昨晩のお遊びのせいか、ハリーは寝不足のようだった。目が少し腫れて見えたし、椅子にもたれかかった身体は気だるげに見えた。
 不意にハリーの顔が向けられ、
「ジニー、訊きたいことがあるんだけど……」
隣りにいるジニーにしか聞こえないような小さな声でささやく。
 ハリーの顔にはためらいが色濃く見えた。どう切りだしたらいいのか迷っている様子で視線が揺れ動く。親友のロンでもハーマイオニーでもなく、自分にこんな表情を見せるのは初めてだ――ジニーはどぎまぎしながらも素早く答える。
「訊きたいこと? 何?」
「あのさ、汽車でのこと……なんだ。吸魂鬼を見た時のこと」
「ああ、あの時の」
つぶやき、微かに眉根を寄せる。
 自分がリドルの記憶を取り戻したあの瞬間、ハリーもまた覚えてもいないはずの【最悪の記憶】を見たのだ。過去の記憶とはいえ、両親を殺される記憶を見せられるなんて、どれだけつらいことだろう。ジニーは車内で倒れたハリーを少しも気にしなかった自分がひどく薄情に思えた。
「ハリーはあの後、大丈夫だった? あたしも……あの時は気分がすごく悪くなっちゃって、自分のことしか考えられなかったから」
「うん、僕は……」
言いかけ、ハリーは首を振る。
「違う。訊きたかったのはそのことなんだ。
 皆から聞いたんだけど、ジニーもあの時……結構ひどい状態になったんだよね? そのこと、夢に見たりする? 僕は見るんだ。いつもじゃないけど……目を瞑ると、両親の声が聞こえてきて、うまく寝つけない」
「あたしは……もう、見ないわ」
少し震える声に、ハリーは訝しげな視線を向ける。
「あたしが見たのは去年の【あのこと】なの。
 あたし、あの事件のこと忘れてたの。忘れさせられたの……ト…、リドルのことも全部。夏休み中、ずっと事件の断片的な夢ばかり見ていて寝れなかった。
 でも、汽車の中で全部思いだして…――そしたら夢を見なくなったの。毎日みたいに見続けてたのに」
「ジニーは彼のことが好きだったの?」
 心を見透かすような明るい緑色の目には怒りの色はなく、ただ純粋な問いかけだけがあった。ジニーは深く頷くと、そのままうつむく。何故だか急に涙がでてきそうになったのだ。
「……そっか。ありがとう、ジニー。僕も君みたいに勇気を持てたらって思うよ」
「あたしなんか! 勇敢なのはハリーよ」
 思いがけず言われた言葉に驚きながら言うと、ハリーはふっと吐息を洩らした。
「僕は勇敢なんかじゃないよ。僕が夢を見続けているのは、きっと心の何処かで両親に触れていたいって思っているからなんだ」
ハリーは見ている方が寂しくなるような笑いを浮かべて言った。
 そんなものは勇気と関係ないと言ってやりたかった。誰だってハリーの立場になれば、そう思うだろう。それに、自分が夢を見なくなったのはリドルを求めていないからではない。あんなひどいことをされたのに、まだ彼を信じたがっているのだ。もうこの世にない彼のことを。
 ごちゃまぜの心をなんとかまとめる言葉を探しているうちに、男子寮のドアが開いて、眠たげな目をこするロンやディーン達の姿が現れた。ハリーはいつも通りの顔をつくって、そちらにいってしまう。
 いつだって憧れていたハリーの背中が、今は小さく頼りなく見えた。どんな慰めも無駄だったかもしれないが、つたない言葉でも何か言えばよかった。
 ふと時計に目を移すと、七時近くになっていた。朝食のために大広場へと向かう寮生を尻目に、ジニーはまた胃の辺りで両手を組み合わせた。あと六時間と少し。