ガーゴイル像のところまできて、はたとジニーは足をとめた。
(ここだった……と思うけど)
ダンブルドアの部屋には一度しかいったことがない。パーシーに連れられてリドルに関する記憶を消してもらったあの時、一度きり。心身ともにまいっていたせいか、その辺りのことは曖昧にしか覚えていない。だから、ここが校長の部屋への入り口だという確信が持てない。
醜いガーゴイル像に手をやってしげしげと見つめると、それは生きたモノのようにジロリとジニーを睨み返してくる。
ここが入り口だとしたら、この像に向かってパーシーは合言葉らしきものを言った気がする。一体なんと言ったんだっけ? 記憶にかかったもやを取り払うようにウーン、と首をひねった。
確か、お菓子の名前だったような気がする。
「レ…、レモンキャンディー?」
うろ覚えの合言葉をつぶやいてみた。が、像はウンともスンとも言わない。
合言葉が違うのか、それともここじゃないのか。どっちだろうと迷っていたその時、
「やあ、オチビちゃん」
声をかけられ、ビクリと肩を震わせる。
オチビちゃん――蔑みの響きを込めて、リドルもそう呼んだ。
おそるおそる横を見ると、ドラコ・マルフォイが立っていた。マルフォイであったことに安堵して――そんなことは初めてだし、この先もないだろうけれど――ふと、ある一転に視線が釘づけになる。彼は怪我でもしてるのか、仰々しいほどグルグル包帯を巻いた右腕を首から吊っていた。
(まるで皆に心配してくれって言いふらしてるみたい。なんて大げさなの)
ジニーは眉をひそめた。
これがマルフォイでなく、例えばハリーだったらジニーも素直に心動かされただろう。だが、マルフォイの顔には僅かにも痛みを思わせるものはなかったし、いつものようにクラッブとゴイルを従えて踏ん反り返っているその様は、ホグワーツ特急で会った時以上に不快感をもたらした。
「こんなところで何してる? 兄さん達に代わって悪戯かい?」
「あたしに構わないでって言ったはずよ」
なんとなく嫌な感じがして、慎重にそう答える。すると、マルフォイがクラッブとゴイルに顎をしゃくった。
逃げるのが一歩遅かった。
マルフォイ達がガーゴイル像を背にしたジニーを囲んだ。そうするとマルフォイはともかく、クラッブとゴイルはかなり体格がいいから、ジニーの姿は陰に隠れてしまう。遠目からは何が起こっているのか分からないだろう。ジニーは彼らの隙間からチラと廊下の端を見渡したが、不運なことに誰の姿も見つけられなかった。
「なんだか今日は随分と強気じゃないか。【あのこと】をバラされてもいいのかい?」
事件のことを匂わせた。この前、列車の中で言われた時は分からなかったけれど、今ならハッキリと分かる。
クラッブとゴイルは興味津々に目を見交わし、あのこと、と彼らにできうる限り素早く繰り返したが、マルフォイは黙殺した。その様子から、どうやら友人の二人にも話していないようだと察しがついた。
でも、一体何故?
マルフォイがハリーとロンに悪感情を抱いているのをジニーは知っている。少しでも繋がりがあれば嫌悪感を持つことも。
宿敵のグリフィンドール生、しかもロン・ウィーズリーの妹を陥れる絶好の秘密をつかんでいながら誰にも話していないなんて、おかしい。
(また何か企んでるのかしら)
口をつぐんだのをどう取ったのか、マルフォイはクスリと笑いを洩らした。
「君に話したいことがある。今週の土曜、一時に一人で図書室にこい」
「あたしには、あなたと話したいことなんて何もないもの。いく必要はないわ」
召使にでも言いつけるような傲慢な物言いに眉をつり上げたが、彼は一向に気にしていない。
「君に拒否権はないんだよ」
ジニーはキッと睨みつけた。思わずマルフォイ達が一歩退くほどにきつい眼差しで。怒りに目の奥がじわりと熱くなる。
「バラしたきゃ、バラせばいいでしょ! 自分のしたことだもの……ちゃんと責任とる覚悟はできてる。あたしが脅しに屈すると思ったら大間違いよ、ドラコ・マルフォイ!!」
どいて、と彼らを押しやって駆けだそうとしたその手をマルフォイが素早くつかむ。
「待てよ、話はまだ終わってな……」
反射的に手がでてしまった。パンッ――静かな廊下に乾いた音が響く。
マルフォイは左頬を押さえてよろめき、尻餅をつく。ジニーはアッと手で口を塞いだ。
振りほどこうとした手が当たっただけだし、そんなに力がこもっていたはずはないが、右腕に巻いた重そうな包帯のせいでバランスを崩してしまったのだろう。大したことはないはずだけど、曲がりなりにも怪我人を叩いてしまった。ジニーは逃げるのも忘れて立ち尽くした。
マルフォイは助け起こそうとオロオロと動く友人達の手を無視して、立ち上がった。叩かれた怒りでか、血の気のない顔が赤く染まり、ジニーを睨みつける目は危険な色を帯びていく。
「よくも……やってくれたな、ジニー・ウィーズリー! 全く……君はあの方にいいように使われていただけあるじゃないか! 理性的な話し合いができないようじゃ、低脳なマグルや穢れた血と何も変わらない。純血のクセにまるっきりの馬鹿だ、君は」
「叩いたのは謝るけど、あなたに馬鹿と言われる筋合いはないわ。とにかく……あたし、あなたの言いなりになんかならないから! もう放っといて」
言い捨て、身を翻したジニーはギクリとした。廊下の向こうから歩いてくるのは……歩くたびに揺れ動く、あの長い、きれいな巻き毛は…――
どうやら、その姿をマルフォイも認めたらしい。肩越しに振り返った彼はニヤリと嫌らしい笑いを浮かべた。
「あれは君の大事な兄さんの彼女……だったな。あの穢れた血のグレンジャーと一緒にバジリスクに襲われた監督生」
「……何、が言いたいの?」
心臓が早鐘のように打ち始めた。ああ、さっきまでと同じように話せればいいのに。声が震えて、つかえてしまう。
青ざめるジニーを見て、マルフォイの笑みはますます広がっていく。足が凍りついたように動けなくなったジニーの側にくると、耳元にささやいた。
「彼女は列車の中でも君を庇ってくれたろう? 恋人の妹のことを親身になって心配するなんて、優しい彼女じゃないか。
もし、あの事件で自分を襲ったのが、ウィーズリー……君だと知ったら、彼女はどんな反応をするだろうな? 楽しみじゃないか」
ジニーは息を呑んだ。
去年知り合ってから、いつも優しく声をかけてくれたペネロピー。同性で頼れる彼女のことを、姉がいたらこんな感じだろうかと想像したこともある。
その彼女の顔から親しさが消えてしまったら、温かさが消えてしまったら…――
「やめて! 言わないで、お願い! いくから……約束、するから……」
最後の方は消え入りそうだった。
唇を噛んで、そう言った。そうしなければ大嫌いな人の前で泣きだしそうになるから。
悔しくて、悔しくてたまらない。
最初からそう言えばよかったんだ、とマルフォイが癇に障る笑い声を立てた。
「忘れるなよ。約束を破ればその時は……分かってるだろう?」
最後に言い捨てて、ペネロピーがくるのと逆方向にそそくさと逃げていく。
カッ、カッ、カッ…――マルフォイと入れ替わりに、せわしいヒールの音が近づいてきた。ふわりと漂う香水の匂いが優しい。
「ジニー。今、マルフォイ達の姿を見たけど、また何かあったの? それに、ここは校長の…――こんなところをうろついてたら駄目よ。先生やフィルチに見つかったら減点されてしまうかも……」
「……ごめんなさい」
涙を見せたら不審に思われる。それでも、この優しい声を聞くと泣きたくなった。
ごめんなさい、その一言は今のジニーの全てだった。
自分可愛さにマルフォイの取り引きに応じてしまったこと。そして、こんなに自分を気にかけてくれるペネロピーを騙そうとしていること。二つの罪悪感が心をちりぢりに引き裂くようだった。
「ジニー?」
いっそ引き裂いてくれればいい。そうすれば、それが贖罪になるかもしれない。
ジニーは心配そうに顔を覗き込むペネロピーをそれ以上見ていられず、ダッと駆けだした。
「ジニー、どうしたの? ねえ!?」
呆気にとられて叫ぶペネロピーの声がグングン遠ざかっていく。
(皆に心配かけて、トムのことを忘れて、マルフォイの脅しに負けて、ペネロピーを騙して…――いつも逃げてばかり。
どうしたら逃げずにすむの? どうしたら立ち向かえるの?)
緩やかに足をとめると、ジニーは両目を覆った。
このままじゃ、いつまで経っても傷口を見つめることなんかできない。
リドルの日記を取り戻しにいく時、湖を染めた金色の光――グリフィンドールの獅子に誓った勇気が、もう一度ほしかった。