留まる理由 - 6/10

 まっすぐ寮に帰る気にはなれず、ジニーは廊下をゆっくり歩いていた。二、三歩進んでは立ち止まり、それを何度も繰り返していると、すれ違う生徒達に不審そうに見られた。だが、それも今は少しも気にならない。
(傷口をしっかり見つめる、か……)
ルーピンに言われた言葉を思い返して、ふっと息を吐く。
 自分の【最悪の記憶】はなんだったろう。一番つらかったのは、なんだろう。殺されかけたこと、甘い言葉に騙されたこと、信じていた人に裏切られたこと、皆を危険な目に遭わせてしまったこと…――どれも同じようにつらく、分からない。
 ジニーはふと歩みを止めた。ふらふらと歩いているうちに、三階にきていることに気づいたのだ。あの事件が起こって以来、授業以外でここにくるのは避けていたというのに。
 廊下の向こうから生徒達の話し声が聞こえてくる。明るくはしゃいだその声はまるで別世界のように遠く感じられた。
 ジニーはクラクラする頭を押さえつけ、壁に手をかけた。気分が悪い。ここにはいたくないと硬直した身体が告げていた。ギクシャクする足をなんとか動かして回れ右をする。
 ここは、はじめて事件が起こった場所。つまりは自分が事件を起こした場所だ。血の色をしたペンキもきれいに洗い落とされ、事件の痕跡は残っていない。けれど、まだその場には何かが残っている気がした。人の恨みや、憎しみ、そして殺意。そんなものが自分にまとわりついてきそうで怖かった。
 逃げるようにその場から離れ、廊下の端までくるとようやく振り返った。暗がりに溶けた廊下の片隅は無気味で、今にも化け物が滑りでてきそうだった。ゴクンと唾を呑み込み、少しの間、目を凝らしていた。そして、そんな自分に気づいて呆れ返る。
(どうかしてるわ……もう、バジリスクはいないのに)
 そして、もう彼もいない。
 そう思うと緊張が一気に解け、安堵とも虚しさともつかない気持ちが染みていくのを感じた。つかみどころのないその感情は寂しさとよく似ていた。もしかしたら怖れながらも期待していたのかもしれない。彼が再び目の前に現れることを。
(馬鹿みたい。トムが……もし、あの人が生きていたって、あたしの前にくるはずないのに)
 秘密の部屋の硬い床を思いだす。
 横たわった自分を見下ろすようにして立つリドル。彼は自分を利用していただけなのだと言った。彼が現世に甦るために必要な道具で、そのために必要だからこそ甘い言葉をかけていたのだと。その言葉は徐々に身体をこわばらせていく床の冷たさよりも、心に強く突き刺さった。
 彼は利用価値がなくなれば、つまらない子供のことなど気にもかけないだろう。スリザリンの血を誇っていただけあって、自分の目的さえ果たせればそれでいい。そういう人なのだから。
 馬鹿な子だ――甲高い笑い声に混じってリドルの声が頭に反響している。
 そう、分かっている。分かっているのに…――
 それでも、会いたい。ジニーはそんな自分の気持ちに気づいて愕然とした。あんなひどい目に遭ったのに、まだ懲りないのだろうか。
 それでも…、とジニーは思う。彼の優しさが上っ面のものだったなんて信じたくない。かけてくれた言葉の全てが偽りだとは思えない。嘘にまみれたその中に、ほんの僅かでも本当のことがあったと信じてはいけないだろうか。
 これは傷から目を逸らそうとしているのかもしれない。彼を【いい人】にすることで騙された自分を正当化し、慰めようとしているだけなのかもしれない。でも…、それでもいい、今は。ようやく気づいた自分の気持ちからは目を逸らせない。
 ジニーは一つ頷くと、校長の部屋へと向かった。ダンブルドアなら何もかも知っているに違いない。自分の知らないトム・リドルのことを。