留まる理由 - 5/10

 学校が始まって、気づけば一週間も経っていた。
 入学の組み分け式で、あの汽車での騒ぎは吸魂鬼の仕業だったのだと聞かされた。人の【最悪】の記憶を引きだすという彼らの能力のおかげで、ジニーはすっかり記憶を取り戻した。
 記憶というのはおかしなもので、思いだすまではしつこく胸にくすぶっていたというのに、一度克明に思いだしてしまってからは心を苛むことはなくなった。まだ時折胸が疼くこともあったけれど、少なくともここ数ヶ月の間見続けていた夢の正体が分かって不安がいくらか和らいだ。
 もう夜に悲鳴をあげることも、夢を見ることもなくなった。
 今の状態は治りかけの火傷に似ていた。暗闇を見るとあの恐怖が舞い戻ってくるが、日が経つにつれて、それも徐々に小さくなっていく。
 そして…――多分、この痕がきれいに消えることはなく、痛みが消えてしまっても以前と全く同じには戻らない。
 そうして平凡だが穏やかな日々が戻ってくると、安堵と僅かな虚しさを感じた。
 ジニーはあの事件以来、自分の中の何かが変わってしまったのを感じていた。友達の輪に囲まれて笑っている時も楽しいはずなのに、大切なものを落としでもしたように心にポッカリと穴が開いてしまったようだ。
 もう前と同じようには笑えない。
「ええと、君……ジニー・ウィーズリー?」
 間近に立ったルーピンに声をかけられ、ジニーは一瞬キョトンとした。
 ぼんやりしていて今が授業中なのをすっかり忘れていた。隣りに座った友達が肘を突っついてくれたのにも気づかなかった。何やってるの、と言いたげに露骨に顔をしかめてくる。他寮生の間から忍び笑いが洩れ、ジニーは顔を真っ赤に染めた。
「あ、す、すみませんっ」
 咄嗟に立ち上がると、その拍子に手に引っかかった教科書や羽ペンが派手な音を立てて転げ落ちる。ドッと皆が笑って、ジニーはますます真っ赤になった。
「ああ、別に立たなくてもいいよ。疲れてるのかな、大丈夫かい?」
「ええ、はい……本当に、すみませんでした」
 恥ずかしさと、自分の不注意さにガックリと肩を落とす。これで新学期始まって早々、グリフィンドールから減点されてしまう。
「まあ、誰にでもそんな時はあるだろうから今日のところは減点しないよ」
 心を読んだようにそう言うルーピンを呆気に取られて見ると、優しく微笑んだ。くたびれた顔が、ほんの少し若返って見える。
「今回だけ特別だよ。マクゴナガル先生にも内緒だ。その代わり、授業が終わったら私の手伝いをしてくれるかな?
 さて、と。じゃあ、今日は少し早いけど、ここで終わりにしようか」
 見た目と違って、この教授は生徒の心をつかむのがとてもうまい。生徒達はパッと顔を輝かせ、ジニーのことはすっぱりと忘れてしまったようだ。
 わいわい話しながら教室をでていく皆を尻目に、ジニーはおずおずとルーピンの側にいった。減点の代わりの罰なのだから、一体何をやらされるのか不安だった。
 ルーピンは皆がでていくのを確認すると、きっちりとドアを閉めた。
「あの…、先生……」
「ああ、とりあえず座ってくれるかな? 緊張しなくていいからね」
 手近な椅子を引いて腰かけるのを見ると、ジニーは戸惑いながらもその向かいの椅子に腰を下ろした。
 この新任の教授を間近で見る機会は今までなかったが、こうして見ると、ルーピンはあまり先生らしく見えなかった。マクゴナガルやスネイプのように厳格そうではなく、教師特有の圧迫感がまるでない。優しく微笑んだような穏やかな瞳は何処か人を和ませ、どんな悩みでも解決してくれそうな雰囲気があった。
 顔かたちではなく、そこがダンブルドアと似ている。そう感じ取ると、自然と肩の力が抜けた。
「あの、手伝いって……あたし、何をしたらいいんですか?」
「そうだね。差し出がましいかもしれないけど、君の悩みを聞きたいと思ったんだ」
「悩み……」
 思わず引いた椅子の音にドキリとする。ルーピンは考え込むように頷いた。
「ホグワーツ特急で吸魂鬼と会った時、ハリーが気絶したのを覚えているだろう。あれはハリーの【最悪】の記憶……つまり彼の両親を殺された時の記憶が甦ったために、ああなったんだ。赤ん坊の時で微かにしか残っていない記憶でも、奴らは鮮明に引きだすことができる。
 ジニー、君もあの場にいたけれど、ハリーと似たような症状がでたろう? あれほどひどくはなかったけれど」
 ハッと開いた口を、慌てて閉じる。
 ルーピンは去年のことを知っているんだろうか? 闇の魔術に対する防衛術の教師だから、ダンブルドアが話したのかもしれない。バジリスクのこと、【秘密の部屋】のこと、そしてリドルのこと。
 でも、だったらそれ以上、何をどうやって話せばいいだろう。去年起こったことは、とても一口では言い表わせそうにない。
 口をつぐんだのをどう受け取ったのか、ルーピンは溜め息を一つ落とした。
「言いたくないかな。いや、少し気になっただけなんだ」
「あのっ…。言いたくないわけじゃないんです。ただ、どう言ったらいいか……分からなくて」
「無理に言う必要はないよ。つらいことを思いださせて本当に悪かった」
 ルーピンはローブの中からチョコレートを引っ張りだして二つに折ると、片方をジニーに渡した。
「さあ、これを食べて。寮に戻ったらゆっくりと休むといい。君はどうも疲れているように見えるよ。次に授業で居眠りされたら減点しなくちゃいけなくなるからね」
軽く笑うと、ルーピンは立ち上がった。
 ジニーは目を伏せた。ルーピンと顔を合わせたのは汽車での事件と今日の授業で二回だけ。たったそれだけなのに、こんなにも心配してくれた人に何も言えなかった自分が情けなかった。
 握りしめたチョコレートをローブのポケットに突っ込むと、席を立って、一礼する。下を向いたまま、ルーピンの横をすり抜ける。
「いつか、君に立ち向かう勇気ができたら…――」
ドアに手をかけたジニーに、ルーピンが言った。
「自分の傷口をしっかりと見つめてごらん。どんなにつらい経験でも、いつか糧になる日がくる……君の力になる日がくるから」
 いつだかダンブルドアも同じことを言っていた。【最悪の記憶】をよく思えるようになる――そんな日が本当にくるんだろうか。
 ジニーは無言のまま頷き、ドアを閉めた。
 ドアの窓越しに見たルーピンはすでにジニーを見ておらず、遠い目をして思いに耽っているようだった。