「久しぶり……だね、ジニー」
柔らかな笑みを浮かべて【彼】はささやく。一年近くに渡ってジニーを苦しめた悪夢の欠片も見せない穏やかさで。
目の前に立っているのは確かにトム・リドルだった。以前見た時も淡い光を漂わせていたが、今は漂う光の群れに彼が映っているといった風だった。風が吹けばかき消えてしまいそうに儚い。
彼の手がスッと伸びる。
「また泣いている。僕のせい…?」
頬に触れられた感触はなく、ただひやりと冷たい空気が漂った。
微かに眉をしかめる彼に、ジニーは自分から手を伸ばしてみた。薄くぼんやりとした身体に触れることはかなわず、素通りする手に残されたのは冷たさだけだった。
「夢……夢なのね、だって触れられない……」
会いたくてたまらない気持ちが幻になって現れた。そんなことがあっても不思議ではない気がした。恐怖の中にあってもずっと彼に惹かれ続けていたのだから。
だが、リドルはゆっくりと首を振った。
「夢じゃない。夢から抜けだすために、ここにきたんだ」
その言葉に、ジニーはゆっくりと身を遠ざける。日記帳に手を伸ばし、ローブから杖を取りだしてピタリと構えた――呪文を唱えれば、すぐに焼き払えるように。
リドルは瞳を曇らせたが、それでも笑みは絶やさなかった。
「僕を殺すの、ジニー?」
静かな声で問いかける。
まばたきした目が、噛みしめた唇が震えだす。鼻の奥をツンと刺激が駆け抜ける。我慢しようとすればするほどに全身に痺れが走って、また涙があふれでそうになる。ぶんぶん首を振って気持ちを奮い立たせようとするが、うまくいかない。
嗚咽をこらえながらジニーは口を開いた。
「殺さない…、殺せないわ。騙されてたことも、あなたがあたしのこと嫌いなのも、自分が馬鹿なのも……全部、分かった。
それでも、あたし、あなたが好きなの……だから、殺せない……」
熱い涙が滑り落ちて、視界が二重三重に歪んでいく。
ジニーの目にはもはや彼の姿が見えなかった。これが現実なのか確かめる術さえなく、自分の内からほとばしる熱さに押し流されながら、それでもただ杖をきつく握りしめていた。
「皆を襲うなら、あたし……あなたと戦わなきゃいけない。でも、戦いたくない…。トム、あたしの魂だけならあげる……から…、だから……皆を殺さないで」
「泣かないで。君を泣かせるためにきたんじゃないんだ」
目元に漂ったひややかな空気に、ジニーは涙を拭う。
少しだけ歪んだ世界に、淡い光に彩られたリドルはまだ存在していた。寝台の横にしゃがみこんで、涙で汚れた顔を覗き込んでいる。
「君に会いにきたのは確かめたかったから。
あの日、君はわざわざ危険を冒してまで、ハリー・ポッターから僕の日記を取り戻しにきたね。放っておけば多分彼は死んでただろう。でも、君がそれ以上事件と関わることもなかった。
例え好きな相手のためでも、自分の命を懸けられる…――本当の意味で君に興味を持ったのは、その時だった。そして」
リドルは立ち上がり、その顔が不意に間近に迫った。ジニーの両頬を包むように透けた両腕を宙に置き、奥の奥まで見通すような目で見つめる。つり込まれ、ジニーもまた彼の双眸に見入った。
かすんだ紅茶色の瞳はとても優しい。以前は蛇のように冷たく恐ろしく見えたのに。
気づけば周りの全てが目に入らなくなっていた。言葉を失った小さな世界に時間の感覚がどんどん薄れていく。押しあい、引きあう視線の力にだけ気を取られていた。
小さな吐息をつき、均衡を破ったのはリドルの方だった。何度かまばたきをすると、ゆっくりと目を瞑る。
「失いたくないと……はじめて、そう思ったんだ」
「えっ…?」
ひんやりとした霧のようなものが顔の周りを漂ったかと思うと、次の瞬間には柔らかな何かが唇に触れていた。温かい。
驚いて顔を離すと、リドルはクスクス笑った。
「これで、ようやく君に触れられる」
「トッ…、トム! い、今……!?」
通り抜けずに触れられた。それも、唇に。
ジニーは唇を押さえてたじろいだ。家族以外の人にされた、はじめてのキス――みるみる顔が真っ赤に染まっていく。あまりの驚きで開いたままの唇から洩れるのは意味をなさぬ言葉ばかり。
「魔法だよ。君が僕のことを強く想ってくれていたから、それをエネルギーに……ほら、こうして実体化できるんだ」
彼は楽しそうに、そう言ってのけた。
言われてみれば、リドルを形づくっていた光の群れは消え失せていた。セピアのようにかすんでいた色も鮮やかさを取り戻す。
信じられない。呆然と彼を見上げ、ジニーはハッと手元の日記帳を思いだす。だが、一瞬早くリドルに取り上げられた。
「もうコレは必要ないよ。媒体は【君の心のある部分】になったからね」
「あ、ある部分って……」
「決して消えない【ある感情】――と、だけ言っておこうかな」
リドルは穏やかな笑みを浮かべたまま、日記帳を返してきた。唇を押さえたまま、おそるおそる受け取ったジニーはパッと立ち上がると、慌ててカーテンを開けた。そのまま駆けだそうとしたが、サッと手を取られる。
「や、放してっ」
「駄目だよ、ダンブルドアのところへは行かせない。どうしても行くというなら、君の大切な人を殺すよ」
ざわりと背筋に冷たいものが走る。雷に撃たれたように身動きできなくなったジニーの前に回り込むと、リドルは笑った。さっきまでの笑いと同じはずなのに、その禍々しさは。
【あの人】の笑い方だ。
目と目をあわせるだけで苦しい。なのに視線を逸らせない。胸が押しつぶされているみたいで、うまく息が吸い込めない。
(怖いッ……!)
キュッと目を瞑ると、押さえつける手の力が緩んだ。
「君は殺さない。君の兄弟や友人を殺すつもりもない――君が僕のことを誰にも話さなければね」
「……本当? 嘘ついてない?」
ゴクリと唾を呑み込んで訊くと、彼は即座に頷いた。
「もう、【穢れた血】の抹殺やハリー・ポッターのことなんて、どうだっていい。
バジリスクの牙に貫かれ、消えるはずだった僕が生にしがみついたのは、答えを知りたかったから。誰かのために命を懸けることの意味…――君の側にいれば、いつか分かりそうな気がするんだ」
これが自分一人の問題ならジニーはすぐに信じただろう。けど、また騙されたとしたら――ジニーは杖を自分の胸元に突きつけた。リドルが目を見開く。
「ジニー、何をしてる」
「約束して……もう嘘はつかないって。そうしたら信じるわ、もう一度。
でも、嘘をついてるって分かったら、あたし自分の手で死ぬわ。あたしに取り憑いているなら、あたしが死ねば、あなたも消える……例え利用されていても、それなら皆に迷惑かからないもの」
彼は何かに苦しむように口元に手をやると、小さく息をつく。
「杖を下ろして。約束するから……もう、嘘はつかない」
「……ありがとう、トム」
素直に信じられなくて、ごめんなさい。何度も心の中で謝りながら、ようやくジニーは喜ぶことができた。
同じ笑みを彩る怖さと優しさ。両極のどちらが本当なのか、今はまだ分からない。けれど、全てを知らずにつきあっていた去年とは違う。彼が自分に答えを見いだそうとするように、自分も彼から答えを導きだせばいい。探り当てたものが例え自分の求めた答えとは違っていても…――今度こそ、逃げずに受けとめよう。
手首を押さえつけていた手の上に、自由な方の手を重ねる。見上げた柔らかな目の中に微笑む自分を映して、ジニーはそう心に誓った。
(2004/01/02)