温みはいつもこの手の内に

 ナルシッサ・ブラックは三面鏡の前にかけ、髪を梳かしていた。彼女のブロンドには少しの縮れもなく、水のようになめらかにブラシの目をくぐり抜けてしまう。梳かす必要など、まるでないのだ。それでも彼女はひたすらに手を動かし続けた。物思いに沈んだ目には光がなく、感情のない面は彼女の人形めいた造作を一層際立たせていた。
 コンッ――風が叩いたのか、微かな物音を耳にし、ナルシッサは窓を見た。耳をそばだてたが、なんの音も聞こえない。それもそのはず。ナルシッサの部屋は三階の端にあり、バルコニーはない。足場になるものがないのだから、当然誰かがノックできるはずがないのだ。ナルシッサは小首を傾げ、再びブラシを動かしだした。
 コン、コンッ――聞き間違いではないのだというように、今度は二度。ナルシッサはブラシを置き、立ち上がった。ナイトガウンの襟元を合わせながら、窓辺に向かう。カーテンをつかみ、そっと開けてみる。外には黒い闇夜が広がるばかりだった。ナルシッサはゆっくりと目を瞬き、そっと窓を押し上げた。湿った空気が湯上りの肌を刺激し、身震いする。
 彼女がなんとはなしに手を伸ばした、その時だった。ぬっと現れた手が、彼女の手首をつかんだのは。驚きのあまり声にはならなかった。反射的にナルシッサは腕を振り上げようとしたが、手首をつかんだ手の力は強く、それは叶わなかった。
「誰か…――」
 ようやく喉からかすれた声が洩れた。
「馬鹿っ、俺だ」
「……シリウス?」
 小声で叱りつけたその声――思い切って窓の外を見下ろすと、そこには箒にまたがった従弟の姿があった。
 ナルシッサの父親シグナスと、シリウスの母親ヴァルブルガは姉弟だ。勝気な姉と物静かな弟はあまり気が合わなかったが、シグナスの妻ドゥルーエラがヴァルブルガの学生時代のお気に入りだったことから、二家族は非常に密接なつきあいをしている。休暇の時だけでなく、何かと理由をつけてはロンドンのブラック本邸か、ヨークシャー州の田舎村にある屋敷で一緒に暮らすのだ。一年の大半を共にすごすため、二つの屋敷には互いの家族のための部屋も設けている。言うなれば、二つ自宅があるようなものだ。
 伯母達が到着したのは今晩のこと。子供は夜遅くまで起きていてはいけないと早々と部屋に追いやられたせいで、まだろくろく話もしていなかった。
「おどかさないでよ、もう……! ベッドを抜けだしてきたってバレたら怒られるじゃない。どうしたの?」
 シリウスは手を放し、目と目が合う位置まで舞い上がった。白い歯を覗かせ、ニッと笑う。
「ああ。急だけどさ、一緒にシベリアに行かないかと思って誘いにきた」
「シベリア……って。今から?」
 近所の公園に誘うような口ぶりに、ナルシッサはぽかんと口を開いた。この従弟の言うことはいつも突拍子がないが、今度の誘いは冗談としか思えなかった。
「そうだよ。行くのか、行かないのか。すぐ決めろよ」
 シリウスの声が少しだけ大きくなった。我が侭なところのある彼は、自分の誘いに飛びつくのが当然と思っている。断ったらもちろん、ためらうだけでも不機嫌になってしまうのだ。
「だって……こんな夜中に……それにお父さまにもなんの断りもなしに?」
「あっそ。俺の誘いよりも、お父さまの方が大事なんだ」
 フンッと鼻を鳴らすと、シリウスは箒を急旋回させた。怒ったのだろうか。あっさりと背を向ける従弟に、ナルシッサは慌てた。
「待って、シリウス……待って!」
「アルファードが待ってるんだよ。早くしなきゃ、置いてかれる。ポートキーで行くから、すぐに帰ってこれるって」
 アルファード、とナルシッサは頭を巡らせた。確か父親の弟にあたる人だ。シリウスの一家とは密な付き合いをしているにも関わらず、彼には一度も会ったことがない。世界中を旅して回っていて、屋敷に腰を落ち着けていることがそうそうない人だと姉のアンドロメダが教えてくれたことがある。
 親戚とはいえ、知らない人に会うのは億劫だ。何を話せばいいか分からない。仲良しの従弟と一緒に行きたい反面、そうも思う。ナルシッサは考える時間を引き延ばすためにつぶやいた。
「手紙を書いてくから、もうちょっとだけ待って……お父さま達が心配したら困るわ」
「俺が置手紙しといたから平気だって」
「それに、この格好……着替えなきゃ」
「キーの到着地点のすぐ側にアルファードの別荘があるんだ。着替えもあるよ、多分な。大丈夫だからさ、ほら!」
 手を差しだされると、反射的に取ってしまう。グイと強い力で引っ張りだされ、ナルシッサの身体は窓の外に躍りでた。宙でぐらりと身体が傾き、悲鳴をあげると、シリウスにシッとささやかれる。彼は両足だけでしっかりと箒を固定しながら、ナルシッサの身体を支えた。
「腰の辺りをしっかりつかんどけよ。飛ばすからなっ」
 楽しげに言うと、シリウスは箒の柄を叩いた。鞭を当てられた馬のように、箒が急加速する。ナルシッサは歯を食い縛って悲鳴をこらえながら、シリウスの身体にしがみついた。頬を切る風が鋭く、息をするのも苦しい。何故シリウスはこんな中笑えるんだろうと不思議に思った。
 ようやく速度が落ちた。地面を掃くようにしながら舞い降りたところは、屋敷から少し離れたところにある森だった。黒々とした木陰や、微かに聴こえる虫の音がなんとも言えずに気持ち悪い。
 シリウスはキョトキョトと辺りを見回し、手を振った。
「アル!」
 木陰から姿を見せた男の風体にナルシッサは思わず息を呑んだ。もつれた髪を肩の辺りまで垂らして、ヒゲは伸ばしたい放題。熊のような風体に尻込みしてしまう。
「ちゃんと挨拶するのは初めてだったね、ナルシッサ。アルファードだ」
 意外なほどに落ち着いた声音だった。よくよく見れば、穏やかな目元が父親とよく似ている。ナルシッサは少し安心して、かがんだ彼の頬にキスをした。
「はじめまして、アルファード叔父さま」
「叔父さまだって!?」
 プッと噴きだしたシリウスに、アルファードは肩をすくめた。が、その目は面白そうにきらきらと光っている。
「叔父さまだろう。何がおかしい。お前も、もう少し年長者に礼を取りなさい」
「年長者って年じゃねーだろ」
「お前の倍以上は生きているぞ、腕白坊主」
 シリウスはナルシッサに笑いかけた。
「一応まだ若いんだぜ、アルファードは」
「一応とはなんだ。一応とは! 口の減らないガキだな、お前は」
 親しげな二人の様子に疎外感を感じて、ナルシッサは押し黙った。
 ナルシッサは生まれてからごく最近まで屋敷の一室に軟禁されていた。部屋の外を出ることは許されず、父親と姉のアンドロメダが訪れるのだけを待つ毎日を過ごしていた。母親が【母】としての役目を果たすために訪れたことはない。気まぐれのようにやってきては当たり散らすだけで。
 それに引き換え、シリウスはブラック家の総領息子として一族中から愛されていた。自分が努力しても得られない血族のあたたかみを、やすやすと手に入れられる従弟が羨ましく、憎らしくも思える。
「私、やっぱり帰る」
 シリウスとアルファードが二人示し合わせたようにパッとナルシッサを見た。
「なんでだよ、今さら!」
「呆れさせてしまったかな? すまなかった」
「いえ、そんなこと……。黙って抜けだしてきてしまって、お父さまも心配すると思うから、やっぱり……」
 しどろもどろ弁解すると、シリウスは利かん気の強い目をスッと細めた。
「お父さま、お父さまって。お前いつもそうだよな。自分でこうしたい、ああしたいじゃなくて、いつも父親の顔色ばっかり窺ってさ! 自分の意思はないのかよ。人形じゃあるまいし! いきなり黙り込んだと思えば、帰る? 一旦こうと決めたんだったら覆すなよ! なんか言いたいことがあるんだったら、ちゃんと言えッ! 俺、お前のそういうところが大嫌いだ!!」
「シリウスッ……!!」
 もうやめろ、と言うようにアルファードが言った時にはすでにナルシッサの目から涙がこぼれていた。泣いたら余計にシリウスを苛立たせるのが分かっていたから、ナルシッサは急いで涙を拭った。けれど、涙は次から次へとあふれでてくる。
「だって、シリウスッ……叔父さまと…、二人だけで、とっても楽しそうなんだもの……私といても、つまんないでしょ……」
 自分なんかいない方が、きっと楽しめる――こんないじいじして暗い子と一緒にいたがる人なんか、いやしない。口にすると、一層みじめになった。
 シリウスはきょとんとして、アルファードを見上げた。アルファードは口ひげをピクピクと動かしながら、シリウスの背中を叩く。ぼうっとしていたのか、シリウスはよろけて二、三歩分前にいった。ナルシッサの肩に手をかけたが、何を言っていいのか分からないらしい。縋るような目でアルファードを振り返る。目で促され、困惑したまま、ともかくとナルシッサの手を取った。
「えー……っと」
「さあ、そろそろ時間だ。ポートキーはこっちだよ、おいで」
 アルファードは何事もなかったかのように平然と言う。
 先ほど彼が姿を見せた木の根元には、空の牛乳瓶が置かれていた。アルファードがその前でしゃがみ、手を伸ばす。シリウスはナルシッサの手を半ば無理やり瓶に近づけた。そうしながらも、ナルシッサの顔を見ようとはしない。唇を引き結んで、そっぽを向いている。
 ナルシッサは恥ずかしくてならなかった。今からでも遅くない。シリウスの手を振りほどいて、家に帰るんだ。お情けで一緒にいてもらうわけにはいかない。それだけは我慢できない…――
「いくよ。3……2……1……!」
 パイプの中に引きずり込まれていくような感覚の後、身体がすごい勢いで回転しだすのを感じた。つまさきから頭までを駆け抜けた風が何処までも自分を押し上げていく。ナルシッサは目を瞑った。とても目を開けていられない。世界がグルグル回って、今にも溶けだしそうだった。自分の身体も、風景に混じっているようだった。とすると、今感じている吐き気はなんだろう?
「今だ、放せッ」
 指先が瓶を離れた途端、ドスンッ――いきなり身体に衝撃が走った。ヒリヒリする足を撫でながら目を開けると、そこは森の中だった。とはいっても、ほんの少し前までいた森とは違う。空が白ばんでおり、辺りの様子がよく分かる。灰色がかった樹木の背は高く、葉は細長い。こんな木は屋敷の近くでは見かけない。
 鳥が舞い降りるようにふわりと地に立ったアルファードとシリウスは、ポートキーの旅に慣れているのだろう。叔父の手に助け起こされたナルシッサはぶるりと震えた。イギリスも暖かくはないが、ここはまた随分と寒い。
「風邪をひくな。別荘はここから五分ほどのところにある。急ごう」
 ナルシッサはカチカチと歯を鳴らしながら、急ぎ足で後を追った。吐く息も、ほのかに白い。イギリスとシベリアでは季節もずれているのかもしれない。シリウスのだんまりも気にならないほどに寒かった。早く別荘につきたい。その一心で懸命にかじかむ手足を動かす。
 前だけを見ていたせいで、足元に気づかなかった。木の根に足を取られて、ナルシッサは体勢を崩しかけた。
「馬鹿! 気をつけろよっ」
 後ろを歩いていたシリウスが、腕を引っ張った。「まったく」とぶつくさ言いながら、ナルシッサの手を取った。
「ドジだからな、お前。こうしてたら転ばないだろ……」
「あ、りがと……」
 ぶっきらぼうに言うシリウスに、ナルシッサは驚いた。いつもは一旦機嫌を悪くしたら、すぐには直らないのに。まじまじと見つめると、気まずそうに目を逸らした。
「げっ……寒いはずだ。雪だ!」
 シリウスの指差した方を見ると、木と木の間に白いものがチラホラと飛んでいた。アルファードが振り返った。
「雪じゃない。雪虫だよ。珍しいな、こんなに早く…――ああ、仲直りしたんだ。それはよかった」
 繋いだ手を見て、くっくっと笑いだした。アル、と鋭い声から逃げるように叔父は駆けだした。その後ろ姿とシリウスとを見比べていると、シリウスが「あー……」と言いにくそうに頭をかいた。
「俺は我が侭なんだ、分かってると思うけど」
 何が言いたいんだろう。シリウスが足をとめたのが気になったが、ナルシッサはとりあえず頷いた。さっきの白いものは雪ではなく、雪に似た虫らしいことは分かったが、実際雪が降っててもおかしくないくらい寒いのだ。早く別荘にいかなければ凍えるかもしれないのに、シリウスは何をもたもたと話しているんだろう。
「一緒にいたくないヤツと、一緒にいない。わざわざ誘ったりしない、からな! 分かったな?」
「えっ……?」
「お前といるの、嫌じゃないから…………き、だから」
 早口な上に語尾を濁して、シリウスは頬を染めた。いやに「寒い寒い!」と連呼して、急ぎ足で歩きだす。その割に、繋いだ手は火のように熱い。ナルシッサはまた涙ぐんでしまった。今度は悲しみのためではなく、口元には微笑を浮かべて。手の内にあるあたたかみを放さないよう、ナルシッサは繋いだ手に力を込めた。

(2006/06/25)