囚われの姫君 - 7/7

 全身の水分を一滴残らず出しきるように、泣いて泣いて…――それでも涙はとまらなかった。暗闇の中に横たわったまま、ジニーはただ涙を流していた。一粒流れ落ちるたびに考える力も、温かみも失われていく。空っぽの心が凍えそうに寒かった。
 ぼやけた視界の中に見知った人達の顔が次々と現われる。家族や友達や、ホグワーツの教員や…――手を伸ばせば届きそうな距離なのに、幻には決して触れることはできない。
 ルシウスの報せで魂の抜け殻のようになっていたジニーの前に、いつしかこうして幻の群れが現われるようになっていた。いまや【ジニーの記憶】となったこの世界には、彼女の思考そのものが反映される。一人取り残されたくないという孤独感を埋めるために無意識のうちに幻を生みだしているのだった。
 だが、ジニーにはそんなことが分からなかったし、分かったところでなんの助けにもならなかっただろう。どうせ幻が見えたところで本当に触れられるわけでもなく、話ができるわけでもない。
 ただ姿がそこに存在しているだけでは虚しい。一人でいる以上に寂しい。
 雲のように四散しては再び形づくられる幻の一つが少年の姿に変わっていく。少し寂しげな笑みを浮かべた、きれいな男のひと。
「……トム」
 呼び声に応えるように幻のリドルはジニーに近づく。彼の手が涙を拭うように目元をかすめて、そして音もなく消えていった。ひんやりとした冷たさだけを残して。
 ジニーは目を閉じた。涙は枯れることなく湧き上がる。
「ひどい人……全て奪ったのは、あなたなのに。家族も、友達も……全てを奪ったのはあなたなのに。あたし一人をこんな冷たい世界に置き去りにして、幻になってもニセモノの優しさで取り繕うの?
 どうして、そんな悲しい顔をするの。皆を殺した時のように残忍な顔をすればいいのに……あたし、あなたが死んで嬉しいはずなのに、そう思えないじゃない……お願い、憎ませて……嫌いにさせてよ……あたしの心まで縛りつけないで……」
《ジニー》
 唐突に響いた、その【声】。幻がしゃべった? 驚いて跳ね起きると上下左右を見渡す。涙を拭って鮮明になった視界の中、幻の群れは何処にもいなくなっていた。
 幻聴まで聞こえるようになったのだろうか。でも、さっきの声は…――
《ジニー、頼む。答えて……》
「……トム? トム……なの?」
 信じられない。けど、聞き間違うはずがない。死んだはずのトム・リドルの声。ベルベットのように柔らかな響きを持った、彼の声だった。
 最初の驚きの後に訪れたのは、自分でも抑えきれないような嬉しさ。
《ジニー……よかった、無事だった……もう消えてしまったかと……》
 リドルの声は微かに震えていた。まるでジニーが手負いのドラゴンのように、今にも飛びかかってくるのを恐れているような…――そんな緊張した声だった。
 ジニーには彼の心情が分かった気がした。この暗闇の世界に閉じ込められた日から立て続けた誓いのために、彼とは一切口を利いていなかった。彼は以前嘲りでも罵りでもいいから話してほしいと言っていた。けど、それは沈黙よりはマシだという意味で言っていたのだと分かっていた。
 沈黙を破った今、彼は鋭い言葉の刃で貫かれるのを恐れている。
 ようやく復讐の時がきた。彼の心を殺せる武器を、自分は持っている。なのに、はじめて武器を持たされた兵士のように、ジニーは戸惑ってしまった。
「ど…、うして? 死んでしまったと……」
代わりに口から洩れたのは、そんな言葉。
 訊きたいことが、言いたいことが荒波のように押し寄せてくる。何処から口にしていいのか迷うほどに。その全ては彼への責め苦ではないことにジニーは気づいてしまった。
 憎いはずなのに、憎めない。憎まねばならないはずなのに、憎めない。
 自分でも制御できない感情の渦に翻弄されるジニーに、リドルはふっと笑いを洩らした。
《まだ死なないよ。やらなきゃいけないことが残っているから》
怯えの消えた優しい声で。
《ねえ、ジニー。ラプンツェルの話は知っているかな? マグルの童話なんだ。悪い魔法使いに高い塔に閉じ込められた女の子の話だよ。塔をよじ登ってきた王子と出逢うまで…――》
「何を……言ってるの?」
 なんの脈絡もないことを話しだしたリドルに、ジニーは何か不吉なものを感じた。殺されるかもしれないとかいった不安とは違う。自分に関する不安ではなく、彼への不安だった。
 【日記】の世界からは何も見えない。彼がどんな表情で、何処にいるのか。どんな様子なのか…――分からないから怖い。
 リドルは答えず、先を続ける。
《魔法使いはね、ラプンツェルが愛しかったんだ。誰の目にも触れさせず、自分だけが彼女を愛したかった。奪われたくなかったんだよ。
 でも、間違ってたのかもしれないね……強引に自分のものにしたところで、心までは自由にならない。君を傷つけたかったわけじゃないのに。僕にはそうする以外に方法を知らなかったから》
 ラプンツェル? 魔法使い? 彼は一体何を言ってるの? ジニーは混乱した頭をなんとか働かせようとした。
 閉じ込められたラプンツェル、ラプンツェルを連れだす王子、悪い魔法使い…――
 ハッとジニーの中を駆け巡るものがあった。この話はまるで同じ。
《誰かのために命を捧げる……愛するっていうのは多分そういうことなんだね。僕にもようやく理解することができた》
「トムッ……あたしは」
言い終えることはできなかった。
 グニャグニャと世界が歪みだし、狭まってくる。みるみるうちに縮小した暗闇がジニーの全てを包み込む。触れあった瞬間それは確かに冷たかったはずなのに、徐々に血流を激しくする。自分の内からドクドクと脈打つ音がうるさいまでに響いた。
 長らく忘れていた【あたたかさ】。
 自分の身体が裏返しになるような奇妙な感覚の直後、硬い感触を背筋に感じた。触れる床の存在が信じられなくて、手のひらが泳いだ。身を起こして床を叩くと、確かに床があるのが分かった。
 視線が揺れ動く。すぐ間近に転がった大蛇にヒッと息を呑んだが、その下にできた血の海から死んでいるのは明らかだった。
 高い柱に天井、蛇の彫像、薄暗い部屋。見覚えのあるこの場所が、最期に見たところであるのを思いだす。ということは、この大蛇はバジリスクだろうか。
 一体誰が退治したのだろう。
 立ち上がると、そっと蛇に近づく。弱った足は鉛をつけられたように重く、ただ歩くだけで何度もよろめいた。
 何人たりともその視線から死を免れることはできないと言われている目は閉じられていた。深々とした傷跡は思わず目を背けたくなるほどで、ハリーを殺した怪物だとはいえ、いい気持ちはしなかった。
 ゆっくりと巨体の周りを辿っていくと、青白く光る何かが見えた。ジニーが起き上がったところからはバジリスクの陰になっていて見えない場所。
 少しずつ近寄っていき、短く息を呑んだ。
「トム……? トムっ!?」
「ジニー……」
 バジリスクに背をもたれて、ジニーを見上げるリドル。背後の蛇のウロコが透けて見える様にジニーは口元を押さえた。
「……見つかっちゃったね。別れを言う勇気がなかったから一人でひっそり消えようと思っていたのに」
「別れって何? どうして……!?」
 肩をつかんで揺さぶろうとした両手は、彼の身体を突き抜けて冷たい蛇の身体に触れた。目を見開き、ジニーは震える手でもう一度リドルの身体に手を伸ばした。けれど、やはり触ることはできなかった。
 リドルは弱々しい笑みを浮かべた。
「君にもらった命を返して、甦らせたんだ……君の魂はとてもきれいだから、穢れた僕にはそぐわない……」
「それじゃ、あなたは……あなたは、どうなるの?」
「……泣いてくれるの? 僕のために」
 力なく床に崩れ落ちるジニーの頬をぽたぽたと涙のつぶが落ちていく。
 リドルは自らの【死】を間近に感じさせない笑みを浮かべた。暗闇の世界での幻と同じように、触れられない手をジニーの目元に伸ばして…――
「最後に君の声が聞けてよかった……ごめんね、ジニー。でも、僕は本当に君を愛していたんだ」
 その言葉を最後に、リドルの姿がさらに薄くなり、やがて空気にかき消えた。ジニーを見つめる顔に穏やかな表情をたたえたまま。
「トム……!」
 反響する声に、答える者はない。
「トム……やっ、いや……! 置いていかないで! どうして……!?」
 リドルの消えた辺りに両手を振り回し、ジニーは叫ぶ。そうすれば、その手が彼の残骸に触れるかもしれない。彼はまだそこらにいるかもしれない。呼べば、もっと大きな声で呼べば答えてくれるかもしれない…――そんな微かな望みはもう叶わぬと知っていたけれど、それでもそうせずにはいられなかったから。
 絶望を受け入れるまでに費やした時間はどれだけかかっただろう。止まらない嗚咽に、息をするのも苦しかった。
「……どうして? 最後にごめんね、なんて……ひどい、最後にあたたかさをくれたくせに、またあたし一人置き去りにするの……? ひどい、ひどいよ……トム……」
 ジニーはふらりと立ち上がり、バジリスクの顔の見えるところまで歩いた。少しだけ開いた口から覗く太く鋭い、猛毒をはらんだ牙。
「……全部奪ったのは、あなた。許さないわ……」
 ジニーは誘われるように近づき、大蛇の口に手を差し入れた。硬い牙に手のひらにあてがうと、目を閉じた。
「責任取って。一緒に連れていってよ……」
 もう一方の手で押し上げると、勢いよく刺し貫く。飛び散る血に笑みを浮かべながら、ジニーは横たわった。毒が身体中に回る恐怖など何処にもなかった。
 悪い魔法使いに解放されたラプンツェルは、彼の後を追って塔を飛び下りた。全てを縛られていたラプンツェルにとって、彼の側だけが生きる場所だった。