囚われの姫君 - 6/7

 迂闊だった。肩で息をしながら、リドルはうずくまる。ルシウス、死喰い人らの裏切りから咄嗟に逃げられたのは幸運だったとしか言いようがない。
 意図せず姿現わした先は【秘密の部屋】だった。
 どうしてここに来たのだろうと訝ったが、それも当然。今も昔も、リドルにはここしか帰るところがなかったのだ――家族も友も持たない彼には、この【秘密の部屋】だけが居場所だった。
 リドルは呻き声を上げながらも、すり切れたマントにローブをめくって傷の具合を確かめた。致命傷となるようなものはなかったが、それにしてはおかしい。生気と魔力がどんどん抜けだしていくのを感じる。
 腕にこびりついた赤茶色の筋に気づいた。まるで蛇がとぐろを巻いているような紋様。
「くっ…、血の刻印、か……」
ルシウスらのチンケな攻撃ではない。ダンブルドアにかけられた最後の呪いだと分かった。
 自らの生き血を呪詛とし、相手の全てを奪い取るスリザリンの秘術の一つ――おそらく、ダンブルドアは自分の死を予期していたのだろう。だからこそ、自らの命を捧げる秘術に手をだした。自分亡き後、誰かが【ヴォルデモート卿】を討つことを信じて。
 こんな時だというのに、リドルの口から笑いが洩れた。グリフィンドール贔屓の彼が最後に使わざるを得なかったのがスリザリンの術だったとは、なんて皮肉なんだろう。
「ダンブルドア先生…、あなたは……いつも僕の邪魔ばかりしてくれた」
そうつぶやいたリドルの心に、もはや憎しみの感情は湧かなかった。ただ、一つの疑問が残っただけ。
 何故彼は自分の命を無駄にしたのか。
 皆こぞって彼の力を認めていた。素直に協力すると……ただその言葉を言いさえすれば、殺そうなんて思わなかった。
 なのに、彼は…――彼らは戦った。ダンブルドア、アーサー・ウィーズリー……そしてハリー・ポッター。誰かを守る、そのために命を懸けて。かつてのジニーと同じように立ち向かってきた。
(……ジニー)
 リドルは身体を引きずるようにして奥へと向かった。
 途切れそうな意識の中、バジリスクの巨体が見えた。気遣わしげに主人を見る蛇に少しだけ笑んでみせる。こんな弱々しい状態にあっても、この蛇は自分を裏切らない。そんなことが純粋に嬉しかった。
 先導するようにゆっくりと進むバジリスクに目を凝らしながら、ガクガクと揺れる足を懸命に動かす。
 ジニーの骨が見えたところで力尽きた。膝が硬い床に叩きつけられても、もはや痛いとは思えなかった。身を起こそうとするも叶わず、冷たい床に打ち伏したまま。目の前がかすんで何も見えない。
「……ジニー、もう…、君が見えない……何処にも」
 リドルは熱い何かが目からあふれだすのを感じた。血だろうな、とボンヤリと思いながら目を閉じる。どんどんと熱くなる身体に【死ぬ】というのも案外悪くない、と思った。【死】とは冷たく孤独なものだと思っていたから。
 だが、違った。白くかすんだ視界は徐々に赤に染まりだし、二重三重となっていた輪郭は鮮明さを取り戻す。赤に染まった何かが自分の腕であることに気づき、リドルは頭上を仰ぐ。
「……バジリスク!? 何をしてるッ!!」
 自らの身体に鋭い牙を当てて血を流す大蛇の姿。痛みに奔走する身体が左右に揺れるたび、熱い血がボトボトと降りかかる。
「よせ! やめろと言っている!」
すぐに制止したが、バジリスクは自傷行為をやめようとしない。スリザリンの末裔である彼に逆らったことなど、ただの一度もないのに。
 振り子のように、やがて止まる動き。バジリスクの巨体がドウと音を立てて床に崩れ落ちる。鋭い牙を覗かせた口から、か細い息が洩れた。
『卿、このまま死んではなりません。血の呪縛を破る術はただ一つ、他者が命を捧げること……僭越ながら私の命と引き換えに…、あなたをお守りいたします』
「馬鹿な! 僕は【穢れた血】だ……お前に命を懸けてもらえるような大層な人間じゃないんだ……!」
『あなたは私のマスター、サラザール亡き後はじめて命を与えてくれた……私に存在する価値を与えてくださった唯一の方……死んではなりません。それに、あなたが亡くなれば彼女はどうなるのです』
 その言葉を受けて安置した骨を見やり、首を振る。
「ジニーは……彼女は僕の死を望むだろう」
何より、これ以上彼女に拒絶される勇気が持てなかった。
 バジリスクの黄色の目がゆっくりと閉じられる。
 消えかけた命の灯火に、震えるささやき。バジリスクが死に差し迫るほどに、自分の内から生気が湧きだすのをリドルは感じた。腕に刻まれた紋様はバジリスクの血にまみれて形を崩していた。
『……卿は彼女から全てを奪われた。ならば責任をとるべきです。あのルシウス・マルフォイが彼女に危害を加えぬ保障などないのだから……』
「バジリスク……?」
 ヒュッと吸い込んだ息の音。それっきり聞こえなくなる呼気。
 リドルはよろめきながらも立ち上がり、下僕の顔が見える位置まで動く。微かにも動かぬ身体に、もはや呼びかけに応えぬことを知った。
「僕がお前の主だって……? 名さえ与えてやれなかったというのに……」
震える声は静寂に消え入るようだった。
 偉大なる先祖の遺してくれた手駒としてしか見ていなかったというのに、自らの命を、勇気を与えてくれた。
 頬を伝う涙に気づき、リドルはそっと拭い取った。マグルや【穢れた血】を殺すことでも、世界を手にすることでもない。
「……ありがとう」
本当に望んでいたのは、こういうものだった気がする。
 血の海に背を向けると、右の手を掲げる。真に自分に忠実であった者から託された命と勇気のために。