城といっても通じるような豪華な部屋の中を、せわしなく歩き回る男がいました。苛立ちをぶつけるように靴を叩きつけているためでしょう。厚い絨毯にはくっきりと道ができていました。
「くそう、アーサーめ……」
彼の名前はルシウス・マルフォイ。親友アーサー・ウィーズリーの娘のジニー(生後間もない赤ん坊)に一目惚れしてしまった哀れな男です。
ルシウスは妻帯者であるため妻にと望むことはできず、仕方なく妾にしたいと口にしてしまったのですが、いかに親友とはいえそんな馬鹿げた申し出を受け入れる父親などこの世にいましょうか。そんなこんなで諍いが起こり、ルシウスとアーサーの友情は完全に失われてしまったのでした。
しかし友情も愛情の前にあってはなんの重みもありません。ルシウスはアーサーとの仲違いよりも、ジニーに会えないことが気がかりでした。
多分赤ん坊にまで手をだす危険な男とみなされてしまったのでしょう。あんな発言をしたのだから当然ですが、アーサーは自宅にルシウスを寄せつけないようになってしまったのです。
ジニーに会えないまま年月は飛ぶように過ぎていき、もうかれこれ十一年も経ってしまいました。成長した彼女はどんなに可愛らしくなっていることでしょう。想像しただけでルシウスは胸がかきむしられるようでした。
会いたい、会いたい、会いたい…――また今日も悶々とした想いをふくらませていた時、ノックが響きました。
「あなた。もう準備はできていますの?」
ルシウスの妻ナルシッサはドアを開けて夫を見ると、大げさに溜め息を吐きました。
「またジニーちゃんのことですの? わたくし、連れ添ってからずっとあなたの考えは正しいと思っていましたけれど、こればかりはアーサーに同感ですわ。もういい加減になさって。相手はまだ子供じゃありませんか。それもドラコと同じ年頃の」
「ああ、その話についてはもう聞き飽きた。それより何か用なのか?」
彼女が悩ましげな表情をすると、それは宵闇を照らす月の如く美しく誰しも皆見惚れてしまうのですが、ジニーに心を奪われきっているルシウスだけは別です。彼が素っ気なく撥ね退けると、ナルシッサは首を振ってもう一度溜め息を吐きました。紫のショールを首元まで引き上げて、愁いを帯びた瞳でジッと夫を見つめます。
「ドラコを買い物に連れていくと仰っていたのは、あなたでしょう? 少しはあの子のことも考えてやってくださいな」
「ドラコの……そう、そうだった! ダイアゴン横丁だな。すぐに支度する」
ルシウスの目がキラリと光ったのを、ナルシッサは見逃しませんでした。大方、またジニーのことを考えているのでしょう。
ジニーはドラコより一つ年下ですから、今年ホグワーツに入学するのです。ということは当然ダイアゴン横丁に買い物しにくるということ。ルシウスの頭の中はジニーに会えるかもしれないという期待で占められているのでしょう。長年連れ添うと、嫌でも相手の考えが読み取れるものです。
ナルシッサは気の毒なアーサーとバッタリ出くわしたりしないことを祈りながら、部屋を後にしました。
ルシウスは妻の足音が遠のいていくのをしっかりと確かめてから、新調のローブをはおって肩に垂れかかる長い銀髪を一つに束ねました。次に鏡を覗き込んで、目元の微かなシワにクリームを撫でつけて丁寧にマッサージを始めます。もちろんジニーに会う(かもしれない)ためです。愛する女性には少しでも自分をよく見せたいものです。
自分の全身をくまなく映し、何処かおかしなところがないかを確認すると、仕事用の机の棚の下段の鍵を開けて、古びた日記帳を取りだしました。
この日記帳はルシウスがひょんなことから手に入れたものです。何か書き込めば、すぐに返事を返してくれる妖精が棲みついているらしいのです。マグル世界にあるチャットのようなものですね。女の子は誰でもおしゃべりが好きなもの。ルシウスはそれをジニーへのプレゼントにするつもりでした。
玄関ホールで息子と一緒にルシウスを待っていたナルシッサは、いそいそとやってきた夫のめかした格好を見て、分かっていたことながらやはり馬鹿な考えを捨てていないのだとはっきりと悟りました。もう疲れてしまって何も言う気になりません。
「待たせたな。では、いこう」
屋敷しもべ妖精の差しだしたフルーパウダーをつまむと、ルシウスは暖炉へと向かい、「漏れ鍋」と叫びました。炎はあっという間にルシウスを包み込み、火が消え入ると同時に彼の姿は何処にもなくなっていました。
「母上、お先にどうぞ」
紳士らしく先を譲る息子にナルシッサは目を潤ませました。ローブの中からレースの縁取りのハンカチを取りだして目元を拭います。
「ああ、ドラコ……お前がいい子に育ってくれたのがせめてもの救いだわ」
「母上? どうなさったのですか?」
「いいこと? 今日のお父さまは少し……ほんの少しだけおかしくなっているの。多分疲れがたまっているのだと思うわ。おかしな素振りをしても見てみないふりをしてあげてちょうだい」
「はあ……分かりました」
首をかしげながらも曖昧にドラコは頷きました。母親が何を言っているのかよく分からなかったのですが、訊き返して神経質な母親を刺激するわけにはいかなかったのです。
儚げな笑みを浮かべると、ナルシッサもルシウスの後を追って暖炉に入りました。ドラコもそれに続いて、フルーパウダーを握りしめて飛び入りました。
その時は分からなかった母親の言葉の意味をドラコが知るのは、そう先のことではありませんでした。