椿姫

 【選ばれし者】が【闇の帝王】を打ち破る――魔法界にほんのひととき芽吹いた希望は、すぐに枯れてしまった。偉大なるハリー・ポッターの伝説は彼の死で呆気なく幕引きとなり、【闇の帝王】は魔法界のありとあらゆる箇所を支配するようになった。十七年前もちょうど今と似たような状況ではあったが、現状は過去よりもなおひどい。何故なら、あの頃は善の偉大なる魔法使い、アルバス・ダンブルドアが在世だった。身を危険にさらされても、背後に彼の存在があるだけで人々の心は勇気づけられていたに違いない。
 けれど、彼はすでにこの世にない。ポッターの死の一年前に、我輩がこの手にかけたからだ。
 彼はその死の瞬間まで、我輩を信じ続けたのだろうか。【闇の帝王】の眷属たる印が腕にある我輩を、何故ああまで信じ抜いたのか。二重スパイであることを疑いはしなかったのか。セブルス……頼む……――弱々しい今際の言葉に何を託そうとしたのか。我輩はついぞ理解することはできなかった。
 ダンブルドアが死に、ポッターが死ぬと、魔法省は手のひらを返したように【闇の帝王】を王座に祭り上げた。魔法省が折れると、主だった純血の一族が。そして恭順と引き換えに命乞いをする混血達。【不死鳥の騎士団】に属していた者達も次々と【闇の帝王】の元に馳せ参じ、信念を貫いた少数の者達は囚われ、そのほとんどが刑に処せられた。【闇の帝王】好みの残虐な刑を進んで行ったのは、もちろん執行人のマクネアと、人間の理知が残っているとも思えぬ哀れなフェンリル・グレイバックだ。偽りだったとはいえ、かつての同胞達が無残な姿になっていくのを見ると、怒りとも憎しみともつかぬ感情が湧き上がってくるのが常だった。【闇の帝王】への二心を疑われぬために、刑場へ足を運ぶのはやめなかったが。
 ジニー・ウィーズリーを見かけたのも、その血なまぐさいところだった。かつて我輩の生徒でもあった彼女は、もはや家族や友人に愛され、愚鈍なほどに優しげな眼差しを持った少女ではなくなっていた。家族と、そして恋人――そう、人づてに聞いたところ、彼女はポッターの恋人であったらしい――の死の痛手が、彼女を子供時代から永遠に引き離してしまったようだった。ろくに寝ず、物も食べなかったためか、彼女の小さな顔は疲労に彩られ、大きな目ばかりが獣のようにギラギラと光っていた。
 おそらく彼女も殺されるだろうと思っていたが、その予想は外れた。ウィーズリー家の代々続いた純血だけでは【闇の帝王】の強靭な刃から彼女を護り得なかっただろうが、ウィーズリー家がゴドリック・グリフィンドールの子孫であったことが幸いした……いや、災いした、だろうか。
 純血の女は希少だ。それも古の魔法使いの血を継いだ女子ともなれば、無碍に死を与えることはできない。純血を重んじる【闇の帝王】は、彼女に純血の血筋を残すことを求めた。それは彼女に純血の夫をあてがったということではない。【闇の帝王】は敵陣の娘に対してそこまで寛大な心は持ち合わせていない。純血の男に求められれば、誰にでも身体を投げださねばならない娼婦になるよう強いられたのだ。
 痩せこけていたとはいえ、彼女は若く、そしてとびきり美しい娘だった。主の宣告に喜んだ死喰い人達は先を争って彼女を我が物にしようと画策した。
 ルシウスが彼らの間から彼女をかすめ取っていったのは、不幸中の幸いだったとしか言いようがない。ルシウスには妻も子もあるが、少なくとも彼女にまともな身なりをさせてやり、十分な食事と住まいを与えるだけの財力があった。次々と男達を渡り歩くよりも、一人のパトロンの世話になり続けた方がいくらかマシに違いない。例え、親の仇といえども。
 ルシウスが彼女の扱いに相当心を砕いていることは、一月と経たぬうちに気づいた。ルシウスは何処にいくにも影のように彼女を引き連れていた。黒と真紅のドレスに身を包んだ彼女の頬は以前のようにふっくらとし、ルージュをひいた唇は艶やかに弧を描いていた。最新流行の形に結い上げた髪には、いつも椿の花が一輪飾られており、彼女が踊るように優雅に歩くとひらひらと花びらが揺れた。そして、それを見つめるルシウスの目の穏やかさ。冷笑しか知らぬと思っていた彼の眼差しには熱がこもっており、事情をまるで知らぬ者が見ていたとすれば二人を年の離れた恋人と思ったろう。

 ある晩のパーティーの席で、彼女に声をかけられた。ルシウスが側にいないところを見ると、【闇の帝王】の呼びたてを受けていってしまったのか。
「お久しぶりです、セブルス。ご機嫌はいかが?」
 長いドレスの裾をたくし上げて、駆け寄ってきた彼女は貴婦人そのものの落ち着いた声で笑いかけてきた。その態度にはかなり面食らった。兄達同様、我輩を嫌い抜いていたジニー・ウィーズリーからファースト・ネームで呼ばれようとは夢にも思っていなかったのだ。
「我輩が何をしたか知っているのだろう。裏切り者に媚を売るようなことをするな。草葉の陰でポッターが泣いているぞ」
 彼女はスッと笑みを引っ込めた。すると陰鬱な表情が浮かび上がる。口元だけで笑っていたのだ。目は少しも笑っていない。
「何か我輩に用でもあるのかね?」
「ええ……まあ」
 そう言いつつも、彼女は一向に口を開こうとしなかった。自分達の会話に誰か耳を澄ませていないかを確かめるように、キョトキョトと辺りを見回している。
「今日は星がきれいだ。バルコニーにでもいくかね?」
 肩に手をかけると、彼女は救われたようにこくりと頷き、歩きだした。男に身体を預けることにはなんの抵抗もないようだ。それはそうだろう。ルシウスがただ愛しむだけのために、この少女を引き取ったとは思えない。
 ルシウスの愛人に何をする気なのかと下卑た想像を隠そうともしない男共の視線を撥ね退けるようにバルコニーに急いだ。
 盗み聞きされぬように窓をきっちりと閉め、邪魔避け呪文をかけた途端、背後でクシャミが聞こえた。彼女は小さく鼻をすすった。春の夜風は冷たく、剥きだしの肩や胸元にこたえるようだった。
「……で、なんの用だ? 手短に話したまえ」
 単刀直入に言うと、彼女はほとんど挑みかかるような表情を見せた。
「お願いがあったんです……先生に」
「我輩が君の先生であったのは、もう過去のことだと思ったが。まあ、いい。どんな【お願い】だ?」
「あの…、薬をつくっていただきたくて」
「薬? なんの薬だ」
 彼女は口ごもり、顔を赤らめた。ずっと以前、まだ学校に入りたての頃のジニー・ウィーズリーはよくこんな表情をしていた。失われたと思っていた少女の面影は、まだこんなにも残っていたのだ。
「……避妊薬を」
「ウィーズリー。君は我輩が【闇の帝王】の忠実な部下であることを知らないのかね? 【あの方】は君に純血の子を産ませることがお望みだ」
「先生以外に頼む人がいないんです……お願いです、あたし、子供なんて産みたくない! 男に身体を好きにされるのは、まだ耐えられるわ……けど、愛してもいない人の子供を産むなんて、そんなの嫌ッ……!!」
 胸元につかみかかってきたジニー・ウィーズリーの手を取り、そっと突き放すと、彼女は頼りなくよろめいた。
「先生、お願い……いっそ死んだ方がマシだって思うわ。でも、死ねないの。ロンが……兄さんがあんな風になっているのに、一人死んだりできない……お願い」
「……それが君に課せられた運命だ。受け入れる以外にあるまい。
 それにルシウスは君をかなり気に入っているようだ。奥方にさえ見せたことのない表情を、君には見せている。あの男がそういう感情を持っていたとは知らなかったが、愛しているといってもいいだろう。いつか、君もルシウスを愛するようになるかもしれない」
「彼が愛しているのは、あたし自身じゃない! あの人が愛していたのは、ママよ……ママの代わりにあたしを愛そうとしているだけだわ!」
 彼女はヒステリックに叫ぶと、泣きだした。今まで押さえつけてきたものが、一気に爆発してしまったという風だ。
「ウィーズリー」
 突っ伏した彼女を立たせようとすると、彼女は身をよじった。その烈しさに椿の花がパサリと音を立てて、床に落ちた。ギクリとした。まるで彼女の細首から血が滴ったように思えたのだ。
 白く震える小さな身体を見下ろしているうちに、柄にもなく哀切の念が湧き起こってきた。まだ十七という若さで両親や兄達を失ったばかりか、憎い仇の囲われ者になり、兄の行く末が気がかりで――ロン・ウィーズリーは【磔の魔法】の影響でいまや子供も同然だと聞いていた――死を選ぶこともできない。
「ウィーズリー、頼むから泣くんじゃない……【闇の帝王】を騙し通せるかは分からんが、なんとか手を考えよう……」
 差しだしたハンカチを引ったくった彼女だったが、その言葉を最後まで聞くと、勢いよく我輩に抱きついてきた。
「先生…、本当? 本当に……ありがとう、ありがとうございます……」
 涙で汚れていたが、その顔は美しかった。感謝を示すためか、彼女は我輩の首に両手を絡ませ、背伸びをした。
 微かにあたった唇の柔らかさを味わう前に、背後で荒々しい音がした。彼女が小さく叫んで、身体を離した。能面のように表情のないルシウスの顔がこちらを見据えていた。
「これはどういうことだね、セブルス。説明していただきたい。ジネヴラ・モリーが私の愛人だと知った上でのことかね?」
「この娘があなたのお気に入りなことは存じ上げていますが、ルシウス……何か問題でも? 彼女は何もあなた一人だけの愛人ではないはず。我輩が誘い、彼女が受けたとしても【あの方】の逆鱗に触れることはないように思いますがね」
「出来損ないの混血児が、私にそんな口を利こうとはな」
「優秀なあなたがアズカバンで羽を休めている際には、出来損ないの我輩でも多少は【あの方】の役に立てたようですがね」
 ルシウスの片眉がつり上がった。普段氷のように硬い表情だけに、たったこれだけの動作で彼がはらわたが煮えくり返らんばかりに怒っているのが伝わってきた。【闇の帝王】を除いて、決闘でルシウス・マルフォイの右にでるものはいない。ここで杖を持ちだされれば、随分と厄介なことになる。
「待って、ルシウス……!」
 張り詰めた沈黙を破ったのは、ジニー・ウィーズリーだった。我輩を押し退けて、ルシウスの元に駆け寄っていく。
「先生はロンの治療に役立つ薬を作ってくださるって言ったの! まだ試したことのない、東洋の薬よ。ロン、全然よくならないし……でも、その薬を使ったら少しは回復するかもしれないって。だから、嬉しくってつい…――怒らないで」
「本当か?」
「ええ」
 詫びるように横目で見たが、それも一瞬で、彼女はルシウスに向き直って口づけをねだった。ルシウスの怒りの矛先を逸らすには、そうするのが一番いいと分かっているのだろう。腰に手を回され、ルシウスにほとんど寄りかからんばかりになりながら、彼女は我輩を振り返った。
「先生、それじゃあ……よろしくお願いします」
 軽く頭を下げ、彼女はルシウスに連れられていってしまった。あんな作り話を信じるはずもないが、愛する少女の言葉に真っ向から反対することもできないのだろう。ルシウスは我輩に見向きもしなかった。
 後には、落ちた椿の花だけが残った。赤い、赤い椿は目に見えない彼女の心から噴き上げている血のようだ。傷は消せなくとも、流れでる血を抑えてやりたい。そう思うのは、ダンブルドアを殺し、多くの人々から未来を取り上げたことへの償いのためだろうか。全く馬鹿げている。こんな感傷など、早く忘れてしまうことだ。椿の花から目を逸らし、バルコニーを後にした。

(2006/05/29)