玩具を取り上げられた子供のように

 サラザール・スリザリンと祖を同じくするブラック家では、他の純血一族よりも血を重んじていた。同族の血以外受け入れないという排他的な家訓も二百年ほど前に廃されてしまったのだが、今なお血族婚は奨励されている。
 自分の一族の血を愛することは、領地を、財産を他家に分譲せずにすむということだ。そして偉大なる先祖の血統を保有し続けることは、何代後にも己の一族が他よりも優位に立つために必要なことでもある。他家との結婚を許された今となっても血族婚が多いのは、一族に浸透したそんな考えの故だろう。
 当主であるオリオン・ブラックとその妻ヴァルブルガが、はとこ関係にあるということもその端的な例だ。彼らの婚姻は誰からも強制されたものではなかったが、一族の秘された総意であった。幼い頃から屋敷に閉じ込められ、目にする者は自分と同じ血を引くものばかり。彼らを結びつけたものが真実愛情だったにせよ、それは愛するように仕向けられただけだ。そのことに気づく者は誰もいない。物の判別のつかぬ子供の時分から、それが当たり前のことであったために。
 ヴァルブルガの弟であるシグナスの娘達、ベラトリックスとアンドロメダの姉妹がクリスマス休暇に帰ったのは伯父夫妻のいるグリモールド・プレイス十二番地だった。
 ベラトリックスは玄関ホールまで出迎えた両親と伯父夫妻の抱擁を受け、一通りの挨拶をすませると、使用人にトランクを預けて部屋に向かった。アンドロメダは学校で起こったいろいろなことを両親に報告しているようだったが、ベラトリックスにはそれがくだらないことに思える。学校での日常をわざわざ両親に話す必要もないだろう、と妹の笑顔を思いだしながら一人ごちた。監督生になり、期末のテストで優秀な成績を収めること。ブラックの血を継ぐ者として求められていることは果たしているのだから。
 ドアを開け、ベラトリックスはあら、と声を上げた。ソファの上で揺れていた足が、ゴトリと音を立てて床に落ちる。ソファの陰から姿を見せたのは、従弟のシリウスだった。
 総領息子のシリウスはベラトリックスよりも八つも年下だ。伯父夫妻は両親よりも早くに結婚したのだが、子供に恵まれなかった。最初の子供は生まれて数日しか生きられなかったし、二番目、三番目の子供は死産。待望の跡継ぎが生まれた時の一族の喜びは大きかった。おまけにシリウスは何をやらせても同じ年頃の子供達よりも呑み込みが早く、先々が期待させられた。
 ベラトリックスにとってもシリウスはお気に入りだった。子供なんて泣きわめくだけの足手まといでしかないと思っていたが、シリウスだけは例外だ。年に似合わずテキパキと物事をこなすところや、卑屈さがないところ、中でも何も恐れないところが好きだった。ベラトリックスが癇癪を起こして怒鳴りつけても父親やアンドロメダのように萎縮したりはしないし、レグルスのように怯えることもない。傷つける心配も、余計な気遣いもいらない。
「姉さまの帰りを待っててくれたのね? 嬉しいわ」
「ああ」
 そう言う割に、シリウスは自分からは歩み寄ろうともしなかった。抱きしめられる腕から逃れるわけでも、キスを避けようとするわけでもなかったが。
 唇を引き結んだまま、ジッと自分を睨みつける従弟の様子にベラトリックスは気づかない。はじめての子供だからと両親から甘やかされたせいだろうか。彼女は昔から自分のことばかり考えていて、周りの様子をちっとも気にかけないところがあった。赤ん坊にでもするように従弟の頭を撫でた。
「あんたの噂はホグワーツにまで流れてきてるわ。利発なブラック家のお坊ちゃんってね。もう中級の呪いにまで手をだしたんですって? 伯母さまもそうでしょうけど、私も鼻が高いわ」
「そんなこと、どうだっていいさ。俺はそんなことを話しにきたわけじゃないんだ、ベラ」
「あら。何か相談事?」
 ベラトリックスは燃えるような従弟の目にようやく気づいて、手をとめた。シリウスはひどく怒っているようだった。一体何を怒っているのだろう。
(ヴォルデモート様のこと……?)
 半純血であるヴォルデモート卿に仕えたことが、この従弟に知られたのだろうかという不安が胸をかすめた。一族の誰もが、今はまだヴォルデモート卿を胡散臭い目で見ていることは知っていた。けれど、彼は親類も同じだ。サラザール・スリザリンの末裔なのだ。交わりを持ってはならない理由が何処にあろう。
「ナルシッサに会った」
 ベラトリックスが口を開く前に、シリウスが早口に言った。
「あいつの何処が病弱なんだ? 家の中に押し込めてるから弱々しいけど、身体の何処に不具合があるわけでもない」
「知らないわよ。お父さまに言いなさいな、そんなことは」
 なんだ、とベラトリックスは笑った。それを咎めるように、シリウスは顔をしかめた。
「あいつの身体のあちこちに傷があった。あれはどういうわけだ?」
「さあね。シシーはグズだから。何処かで転んで怪我でもしたんじゃないの?」
 シシー。ベラトリックスは軽蔑を込めて、その名をつぶやいた。ナルシッサのことだ。もっともベラトリックスにとって【シシー】は愛称ではない。【泣き虫】の蔑称だ。痩せっぽちで目ばかりがやけに大きい、みっともない妹。けぶる金髪も、間近で見なければ見えないような睫毛の下に隠れた涙でいっぱいの目も、何もかもが弱々しくて見ているだけで不快感を誘う。
 ナルシッサは生まれてからずっと屋敷の中に閉じ込められていた。家族の皆が伯父夫妻の家に遊びにくる時も、世話人をつけて屋敷に捨て置いていた。生まれつき身体が弱いから外にはだせないと父親が常々言っていたが、ベラトリックスはそんなことを少しも信じてはいなかった。もうじきホグワーツ年齢になるというのに魔力を開花させない。みっともスクイブだからだ。存在を知られるだけで、ブラック家の威信に瑕がつく。だから、隠そうとしているに決まっている。
 シリウスは激昂した。
「転んでするような怪我じゃない! 鞭打たれたような傷や、火傷の痕もあったんだぞ!」
「何が言いたいの? 私があの子を傷つけているとでも?」
 冗談じゃない、とベラトリックスは思った。あんな泣き虫にかまうだけの価値などありはしない。近寄ったことも、声をかけたこともない。
「……お前がやったのか?」
「知らないわ。なんだって私を疑うの」
 なのに、何故かシリウスはハナから疑っているのだ。いや、疑うくらいならまだいい。ナルシッサの側に立って、彼女を傷つける者はなんであれ許せないといった顔をしている。
(どうして……?)
 何故自分が悪いと決めつけられるのか。ナルシッサが傷つけられていたのであれば、それ相応の理由があるはずだ。その理由を知ろうともせず、頭ごなしに否定するのは何故?
「叔父上とアンにも聞いた。叔父上は誰かを庇ってるみたいだった。アンはそんなこと全然知らなくて驚いていた。ということは、叔父上が庇っているのは、身内の叔母上か、お前ということになる。それに、ベラ……お前、何故妹がそんな目に遭っていると聞いたのに落ち着き払ってるんだ? 心配もしないのはどうしてだ?」
「嫌いだからよ。あの子のことが、嫌い。だからよ」
「ナルシッサに何ができるって言うんだ! ただ窓辺に寄って、羨ましそうに空を見上げていただけのあいつに何ができる!? 最低だな、ベラ! 俺は弱いものいじめなんて馬鹿なことするヤツは大っ嫌いだ!」
 ベラトリックスは咄嗟にシリウスの肩をつかんだ。このままシリウスをいかせたら、取り返しもつかないことになるという予感が胸をよぎった。
「あんたまでそんなことを。あの子に何を吹き込まれたかは知らないけど」
「あいつはお前のことなんて一言も言いやしない。叔父上のこともな。お前にやましいことがあるから、あいつが何か言ったって思い込むんだ」
 ピシャリと言うと、シリウスはベラトリックスの手をまるで汚らしいもののように払いのけた。
「何処いくの」
「ナルシッサのところ。箒に相乗りさせてやるって約束したんだ」
 ベラトリックスは呆然とその言葉を聞いた。
(シシーがいる? 今、この屋敷に?)
 家族をバラバラにしただけでは飽き足らず、今度は大事な従弟まで奪おうとするのか。蒼白な顔が引き攣った。 
「シリウス、シシーにかまうのはやめなさい! あれは疫病神よ、ブラック家に堆積した毒なの……やめて!!」
「俺は自分の思うようにするさ」
 追い縋るベラトリックスから邪険に逃れると、シリウスはドアに手をかけた。
 いく。いってしまう…――
「許さないわよ……! あの子の味方をするというなら、あんたは今後私の敵よ!! 口も利いてあげない。いいのッ!?」
 シリウスは振り返った。その顔には軽蔑の色が濃く浮かんでいた。
「卑怯者と親しくつきあいたいわけじゃない。結構だ」
 シリウス! 叫びはもはや声にならなかった。ドアが閉まると同時に、ベラトリックスは号泣した。彼女の荒れた心情に同調するように、部屋の調度品があちこちにぶつかって、砕けたり、壊れていく。小さな嵐はいっかな鎮まらず、床に座り込んだベラトリックスの嗚咽はやまなかった。

(2006/06/17)