カーネーション

 叔父のシグナスの邸宅に二週間ほど滞在すると告げられた時、シリウスが真っ先に思い浮かべたのは箒のことだった。グリモールドプレイスはマグル達の住処に紛れており、外で箒に乗ることは固く禁じられていた。けれど、叔父の家はヨークシャーの片田舎にある。少し離れたところにはマグルの村があったが、大きな湖に隔たれている上に屋敷の周辺にはマグルの目を欺く魔法がかけられている。折角誕生日にプレゼントしてもらったのに乗る機会がなかった箒が日の目を見れるのだと思うと嬉しくてならなかった。
 シリウスは魔法界の名家ブラック家の当主オリオンと、そのはとこに当たるヴァルブルガの嫡子である。両親は若くして結ばれたが子供に恵まれず、シリウスが誕生したのは母の四つ年下の弟であるシグナスが長子ベラトリックスを授かってから八年も後のことだった。跡取り息子として一族の愛情を一身に受けて育ったシリウスは何をやらせても呑み込みが早く、それを皆がこぞって褒めそやしたものだから、周りの目を気にしない行動的な子供に育った。
 久方ぶりに会う叔父と叔母との挨拶もそこそこに、シリウスは外に駆けだした。子供向けのちゃちな箒ではなく、競技用の箒の感触に興奮を隠せない。滅多に会わない、叔父のアルファードがプレゼントしてくれたものだ。過保護な母はまだ早いのではないか、怪我でもしたらどうするのかと取り上げようとしたらしいが、父が取り成してくれたらしい。
 自分の背丈と同じくらいある箒に跨り、シリウスは空中で何度か宙返りをしたり、上空に舞い上がってから急下降して地面を吐き上げた。子供用の箒とは違って機敏な動きができ、かなりの速度も出せる。高度なクッション呪文がかけられていて座り心地が快適だ。箒の性能を確認していると弟のレグルスがやってくるのが見えた。大人達の間を抜け出すきっかけがをつかめず、右往左往していたのだろう。二つ年下の弟は外見こそシリウスそっくりだったが、思いついたままに行動するシリウスとは違い、周りをよく見る子供だった。
「かっこういいな、大人用のほうきって」
「だろ、最高だよ。お前もアルに買ってもらえよ」
「どうかな。僕にはまだムリだと思うよ」
「大丈夫だって! ほら、一度乗ってみろよ」
 一回り小さい弟の手に箒を押しつけた。レグルスはかぶりを振りながらも、箒に跨り、軽く浮き上がった。途端、感嘆の声が洩れる。
「……すごいっ」
「もう少し前に詰めろよ」
 シリウスは箒の尾をつかむと、レグルスの後ろに飛び乗った。大きく箒が傾く。弟の脇に素早く両手を差し込み、柄をつかむとシリウスは高々と舞い上がった。地面がどんどん遠くなり、草が緑の塊になっていく。
「すごいんだぜ、この箒。急旋回も急停止も意のままって感じさ。見てろよ」
「シリウス、ぶつかるッ……!!」
 屋敷の石壁に向かってどんどん勢いをつけていく。石の繋ぎ目がはっきりと見え、レグルスの口から鋭い悲鳴が上がった。あわや叩きつけられるといったすんでのところで、箒が下から上へと向かって壁を吐き上げた。ケラケラと笑うシリウスは何処までも楽しげだった。
「びっ…、くりした……」
「すごいスリルだろー、最高!」
 息を詰まらせながら額を拭う弟の頭をクシャクシャに撫でながら、シリウスは言う。
「ケガするところだったのに。あれ……」
 呆れたようにつぶやいたレグルスの目が、すぐ側にある窓に釘付けになっている。厚いカーテンとカーテンの間に僅かな隙間があった。
「どうした?」
「今、そこに誰かがいた」
 シリウスは箒を窓の横にぴったりと寄せると、軽くノックをしてみた。返答はない。ローブのポケットをまさぐり、杖を探し出すと窓に向けた。
「アロホモラ」
 少し窓から離れて、ささやく。杖先から光が発せられると、ゆっくりと窓が開かれた。厚いカーテンに手をかけ、箒ごと室内に滑り込んだ。
 中にいたのはシリウスと同じくらいの年齢の少女だった。ゴーストと見紛うほど色という色を感じさせない少女だった。ミルクのように白い肌に、けぶるような長い金髪は腰の辺りまである。青い大きな目は何かを訴えかけるように見つめていた。
「誰だ、お前」
 女の子はためらいがちに目を伏せる。口を利けないのだろうか、と思ったその時、少女は消え入るような声を出した。
「ナルシッサ。あなた達は誰?」
「俺はシリウス。こっちは弟のレグルス」
 ナルシッサと名乗った少女はハッとしたようにシリウスを見たが、それ以上は何も言わない。ただ何かを言いたげにジッと見つめてくる少女に、シリウスは苛立ちを覚えた。暗いヤツだ、とっとと遊びに戻ろう。そう思うシリウスとは逆に、レグルスは少女に興味を持ったようだ。
「どうしてここにいるの? 親がここで働いているの?」
 飾り気のない服装をしているから召使の娘かもしれない。レグルスの問いに、少女は首を振った。
「じゃあ、ブラック家の親戚? 遊びにきてるの?」
 少女は首を振るばかりで答えようとしない。シリウスは苛々と言った。
「そんなに俺達と口利きたくないのかよ。いいぜ、もう出てくからさ。邪魔したな!」
「ちがっ…、違うの!」
 少女は今にも泣き出しそうに見えた。その時、ノックの音がした。少女はシリウス達の顔と扉とを見比べながら、おろおろとしている。
 入ってきたのは叔父のシグナスだった。彼は目立たない男だった。ブラック家の血筋を色濃く継いだ容貌は美しかったが、温室育ちの花のように何処か病的な脆さを秘めている。口数が少なく、誰かに話しかけられなければ自分から口を開くことも滅多ない。それは子供達に対しても同じで、シリウスは挨拶以外の言葉を交わした記憶はなかった。シグナスは静かな面に微かな苛立ちを浮かべ、シリウス、レグルス、ナルシッサへと目を移した。
「シリウス、レグルス、何故ここにいるんだ。ナルシッサ、お前が二人を呼んだのか?」
「いいえ、違うわ……お父様」
「お父様?」
 シリウスとレグルスの声が重なった。顔を見合わせる二人に、シグナスは溜め息を吐いた。
「会ってしまったものは仕方ないな。この子はベラとアンの妹、ナルシッサだ。ナルシッサ、お前の従弟達だよ」
「従姉だって? だって、そんなこと一度も……」
 ベラトリックスとアンドロメダは二人姉妹だと思っていた。それにナルシッサというこの少女は叔父にも、叔母にも、従姉達にもあまり似ていないように思えた。ブラック家特有の濃い色合いの髪ではないのが違和感を大きくする。
「ちょうどよかったのかもしれませんね、姉上」
 音もなく入り込んできたヴァルブルガに、シグナスが告げた。弟とは対照的に、彫像のような整った目鼻立ちは強さに満ち溢れている。女性にしてはかなり背が高く、腰まで垂れた黒髪がよく似あった。
「シリウス、屋敷の中に箒を持ち込んではなりません。汚れるでしょう。それにレグルス、あなたもここにいるということはシリウスと一緒に箒に乗ったのね。箒の相乗りは危険です。親の目がない時に危険なことをするなといつも言っているでしょう」
 今度はナルシッサを見下ろした。厳しい母ではあったが、シリウスがこれまで見たことのないような蔑むような目つきだ。怯えたナルシッサが父親の陰に隠れるように後退る。
「さて、ナルシッサ? 私はあなたの父の姉、ヴァルブルガです。あと数ヶ月もすれば、あなたもホグワーツ魔法学校に招かれる時期……なのに、いまだ魔力の片鱗も見せていないとかで、母上が大層嘆いています。この家からスクイブを出すわけにはいかない。そこで私があなたを指南することになりました……人が話しているのだから目をちゃんと見なさい!」
 恫喝され、ナルシッサは傍目にも分かるほど震えていた。レグルスは何かを言いかけては黙り込むのを繰り返していた。何かを言うことで事態が悪化してしまったらどうしよう、とそんな風に考えているのかもしれない。レグルスはまだ子供なのだ。それは大いに頷ける。けれど、シグナスは娘の様子に気づいていながら何も言わない。ただ少しばかり非難を込めた目をしているだけで。
 母親が不当にナルシッサを苛めているようだ。それに、叔父に自分の娘を庇うつもりがないらしいのがシリウスの癇に障った。
 次の瞬間、シリウスはナルシッサの手を取り、箒に飛び乗っていた。当惑した青い目が大きく見開かれる。けれど、シリウスが見ていたのはただ一点――開け放たれたままの窓だった。片手だけで柄を支えた不安定に姿勢のまま、一気に外に飛び出した。耳をつんざく悲鳴と、身体の右側にずしりとかかる重み。遥か後方から母親の叫び声が追ってきた。
「やっ、下ろして!」
 暴れるナルシッサを落とす前に、シリウスは速度を緩めて地上に降り立った。ナルシッサは左肩を押さえながら、肩で息をしている。命の危険を感じたためか、ぽろぽろと涙をこぼしながら。
「お、おい、泣くなよ」
 ナルシッサは口元を押さえた。なんとか泣くのを我慢しようとしているらしい。空いた手はしきりに左肩をさすっている。片手だけで全体重を支えたせいで痛めてしまったのかもしれない。
「ごめんな。手、大丈夫か?」
 顔を覗き込んで、シリウスは思わずドキリとした。間近で見たナルシッサの顔があまりにもきれいだったのだ。大きな目を縁取る睫毛も、寂しげに見える眉も混じりけのない金色。まるで精巧な人形だ。
 ようやく涙の発作が治まったらしく、ナルシッサは口元から手を離した。首を振りながら、
「大丈夫。ありがとう……助けてくれた、のよね」
「そういうことになるのかな。痛い思いさせたけど」
 対岸の屋敷に目をやると、ナルシッサもそれにならった。今のところはまだ誰も追ってきていない。
「ナルシッサ……だったよな。お前、スクイブなのか?」
 魔法使いの血を引きながら魔力を持たない存在のことを聞いたことがある。しかし、続けてこうも教わった。このブラック家に連なるものにスクイブはただの一人もいないのだと。
 ナルシッサは戸惑いながらも頷いた。
「私は生まれつき身体が弱くて、だから魔法がうまく使えないのだと言われてきたわ……でも、もうじき十一なのにまだ兆しが見えなくて」
「もうじき十一って……俺より年上なのか? 四つも?」
 シリウスは信じられずにぶしつけと言ってもいいほどにナルシッサを眺めた。どう見ても自分と同じくらいにしか見えない。ナルシッサは微笑した。
「あなたは随分大きいのね、シリウス。羨ましいわ、本当に」
 シリウスは顔が火照るのを感じた。親戚や、両親の友人の子供達の中には自分と同じ年頃の女の子もいた。けれど、女の子はすぐ泣くし、意気地がない。同年代の男の子ほどに興味を持てなかった。けれど、この子は…――
「帰りましょう。遅くなれば、もっと怒られてしまうわ」
「待てよ。なあ、俺、魔法を教えてやるよ」
 ナルシッサは汚い言葉を聞いたように後退った。
「魔法を使えるようになれば怒られないだろ。だから」
「簡単に言わないで。それに、いや」
「なんで」
 さらに逃げようとする手を取ると、ゆったりとした袖が肘の辺りまで上がった。そして覗いたのは白い肌とは不釣り合いな紫のアザ。ナルシッサは慌てて袖を手首まで下げた。
「その、アザ」
「私は誰かを傷つけるなんて嫌」
 シリウスは息を呑んだ。蔑むようにナルシッサを見た母。隠されていた魔法を使えない従妹の存在。腕のアザ…――この家からスクイブを出すわけにはいかない、と母はそう言っていた。魔力を持たなければ消されてしまうのか? 血族なのに?
「誰かを傷つける魔法じゃない」
 なんとか笑いを捻りだしてシリウスは続けた。ナルシッサの手に杖を向けると、彼女は痛みに耐えるように目を瞑った。
「オーキデウス」
 痛みがないことを不思議に思ったのか、ナルシッサがそろそろと目を開ける。手のひらの少し上に緑のつぼみが浮いていた。瞬く間につぼみの先端が割れ、見る間に貴婦人のドレスのような赤い裾が綻びていく。ナルシッサの手の中に一輪のカーネーションがあった。
 感嘆の声が上がると、シリウスは杖を一振りする。花びらは一斉にちぎれ、風に舞っていく。残った部分は急激に縮み、またつぼみの姿に戻ると宙にかき消えた。
「……きれい」
「魔法が使えれば、きれいなものをたくさん作り出せる。こういうこと、やってみたいと思わないか?」
「やりたい! やりたいわ、私にもできる?」
 興奮に輝いた顔がまぶしい。シリウスは顔を赤らめながら言った。
「できるさ。できるように俺が教えてやる。約束だ」
 女の子なんて面倒だ。そう思っていたはずなのに。力強く答えたのは、きれいな彼女をこれ以上誰にも傷つけられたくなかったからだ。
 この日の二人の出会いがブラック家を後年滅亡に導くことになるとは、当の二人でさえも気づいていなかった。

(2012/12/01)