生徒の立ち入りが禁じられた天文台の塔で、ロドルファス・レストレンジは一人煙草を吹かしていた。昼休みも終わり、もうとっくに授業の始まっている時間だと気づいているのに、壁に背をもたせたまま、細くたなびく煙を目で追っている。
魔法史なんて、履修してもしなくても人生に影響はない。こんな晴れた日に日の光を浴びない方が健康を損ねてよくないだろう。気弱な学友に代返を頼んできたから、出席日数の心配もない。
マグル界と同じく、イギリスの煙草の値段は異様に高い。指に熱さが伝わるギリギリのところまで吸ってから、渋々と投げ捨てる。最後に吸い込んだ煙の苦味に顔をしかめながら踏み消すと、ローブの中から箱を引っ張りだす。最後の一本と見て取ると、軽く舌打ちした。
煙草を仕入れられるのはホグズミードだけだが、次にいくのは半月も先だ。ムシャクシャした時に煙草がないのはきつい。ここは我慢しておくべきだろうと、ロドルファスは目を瞑った。が、すぐに日差しの強さに耐えられなくなり、這うように柱の陰に移動した。日陰は逆に寒く、ロドルファスは長い足だけ日向にだした。そうして、しばらくするとロドルファスは眠りに落ちていた。
十分かそこらだったのか、空は相変わらず青々としている。ウーンと腕を伸ばし、ロドルファスは立ち上がった。そこで、おやと動きをとめた。いつの間にか、他の生徒がきていたのだ。ガラスのない窓に腰かけ、遠くを見ている女生徒。黒く、長い髪を風になびかせている彼女の横顔に目を留め、ロドルファスは柱の陰からでていった。ぼんやりしているのか、彼女は近づいていくロドルファスには気づいていないようだった。
「ベラトリックス」
彼女はハッと振り返ったが、ロドルファスを見て、落胆したように溜め息をついた。
「なんだ、レストレンジ……またサボリ?」
「お前もだろ」
「私は授業を休んだのは初めてよ。落ちこぼれのあんたなんかと一緒にしないでちょうだい」
ツンと顔を背けるベラトリックスに、ロドルファスは眉をひそめた。
ベラトリックスは千年の歴史を誇る由緒正しい純血名家、ブラック家の令嬢だ。対するロドルファスの家も純血とはいえ歴史が浅く、魔法界での地位はそう高くない。そのためか、ベラトリックスの態度はいつも何処か見下した風だ。同学年だというのに威張り腐った態度を取られるのは我慢がならず、かといって真っ向から何か言おうものならブラック家を王族のように祭り上げている連中の怒りを買ってしまい、学校に居づらくなる。父親の仕事にも差し支えるかもしれない。
ロドルファスはそんな考えから、いつもベラトリックスに近寄らないようにしていたのだが、今日は避ける間もなかった。堆積していた思いが一気にあふれでる。幸い今は二人きり。ベラトリックスはプライドが高いから、告げ口をする心配もない。何を言おうと自由だ。
「落ちこぼれの俺がサボるのはいいが、ブラック家のお嬢さんが堂々とサボリたぁねー……優秀な彼氏に知られたら、怒られるんじゃねーの?」
「彼氏ですって?」
「ギデオン・プルウェット」
ベラトリックスがグリフィンドール寮の秀才、ギデオン・プルウェットと親しくしていることはホグワーツ中で噂になっていた。ロドルファス自身、二人が肩を並べて歩いているところを遠目から見たことがある。
眉目秀麗なキデオン・プルウェットは寮を越えて女生徒達に支持されている。どんな女でも選びたい放題なのに、こんなツンケンした女の何処がいいのかとロドルファスは不思議で仕方なかったが、たで食う虫も好き好きというヤツなのだろうか。二人はよろしくやっているようだった。
だが。
「怒らないわ。もう私とは関係のない人だもの」
「もう? フラれたのか、お前?」
ニヤニヤ笑いながら言うと、
「フッたのよ、こっちから! もう、あんな奴いらないッ!!」
鋭いベラトリックスの目つきは、敏捷な肉食獣のようだ。今にも飛びかかってきそうな気迫に、ロドルファスは口笛を吹いた。取り巻き連中がいなくてもロドルファス程度ならいつでもねじ伏せられると思っているのだろう。一対一だというのに全く臆する気配がない。
「ヴォルデモート様も仰ったわ。ギデオンは私のためにならないって。私を駄目にするから、別れろって……」
ヴォルデモート卿はマグル根絶の旗を掲げ、純血の名家に接触していってる男だ。卿と名乗ってはいるが、出自は知れない。後ろ盾が犬猿のマルフォイ家だというのにも関わらず、ブラック家のベラトリックスが彼に心酔しているのも不思議な話だ。
「お前、あの人の言うことにはなんでも従うのな。かわいそうになー、プルウェットの奴も。手のひら返したようにポイ捨てされてさ」
他の誰にも見せない甘えた顔で、ギデオン・プルウェットを見ていたくせに。誰かに反対されたくらいで、すぐに諦める。自分の意思も持てないお嬢さんはこれだから…――呆れ混じりに言うと、ベラトリックスはいきなり立ち上がった。高い位置にあるから、天文台の塔は風が強い。危ない、と伸ばした手は撥ね退けられた。燃えるような激しいベラトリックスの目に、ロドルファスはたじろいだ。
「ヴォルデモート様が渋い顔をしていたのは、ギデオンが敵方にいこうとしていたからなの! 一緒にきてって言ったわ。私と……ずっと一緒に。でも、彼は断った。私よりも、一族を選んだのよ……!!」
なんだ、結局はフラれたようなもんじゃないか。きつく拳を握り締めて、胸を張って。わめき散らして、哀しみを忘れようとしているかのようだ。
「それで一人泣いてたのか」
「泣いてなんかっ」
「泣いてるだろ? 心の中で」
「泣いてない! なんで私があんな奴のために泣かなきゃ駄目なのよ!」
怒鳴り散らして疲れたのか、ベラトリックスはストンと腰を下ろした。ロドルファスは片耳を塞ぎながら、空いたもう一方の手で器用に煙草を取りだした。二本の指で挟んだそれを名残惜しそうに見ながら、渋々といったようにベラトリックスに差しだした。
「何よっ?」
喧嘩腰な声音にカチンとしながら、
「やるよ。お嬢さんにはキツいかもしれねーけど、スカッとするぜ。煙と一緒に嫌なモンが全部でてっちまう」
「不良の仲間にするつもり?」
「んなわけねーだろ。お嬢さんにゃ、土台無理だ」
「お嬢さん」に最大の皮肉を込めて言ったのが通じたのか、ベラトリックスはかなりムッとした顔で煙草をくわえた。火をつけてやると、落ち着いた顔でフーッと煙を吐きだした。かなり苦めの銘柄だというのに少しも咳き込まない。
「お前な~…、そこは可愛らしく咳き込みながら涙をこぼすところだろうが。泣かせて楽にしてやろうって俺の心遣いをありがたく受け取れって。普通の女ならそうする。絶対そうする! なんのために貴重な最後の一本をやったと思ってるんだ?」
「泣きたくないのに、なんで泣かなきゃいけないのよ!? 馬鹿じゃない? しかも、あんた顔によらず案外ロマンチストなのね、レストレンジ」
事もあろうか、ベラトリックスはくっくっと笑いだした。気取らないその笑顔にロドルファスは面食らった。用心深い獣が、いきなりふところの中に飛び込んできたようなものだ。
「貧乏人には貴重な一本だものね。返すわ、レストレンジ……ちょっとスッキリした気がする。ありがと」
吸いさしを渡すと、軽やかな足取りで戻っていく。ロドルファスはサラサラと揺れる黒髪と、煙草とを見比べる。少しだけ湿った煙草の先端部には、僅かにも口紅は残っていない。ためらいつつも、くわえ直したロドルファスは頭をかいた。夢を見ていた気がした。
(2006/11/03)