The Godfather

 寝台のクッションに背を持たせた女は、虚ろな目を部屋の何処かに投げかけていた。傍らにかけた男にも、彼が抱えた布ぐるみから洩れる弱々しい声にも一切の関心がないかのようだった。
「女の子だ。なんと名づけようか」
 沈黙を破るというよりも、沈黙と同化するような声音だ。布の合間から覗いた、小さな頭。泣き声というにはあまりにも儚い音を出す、小さな口。男の手が、赤ん坊の身体をゆっくりと揺らし始めた。ぎこちない動作だったが、あやそうとしているらしい。
「可愛い子だ。見るといい」
「……名前なんて必要ない。捨ててきて」
 独り言のようにささやく女の声からはどんな感情も読み取れなかった。女に見せようと思ってか立ち上がりかけた男は、動きを止めた。何処か途方に暮れたような目をしている。
「君の子だ、ドゥルーエラ」
「いいえ…、私の子供じゃない。あの男の子供よ。あの家にくれてやればいい」
「何を言っているんだ」
「あなたの子じゃないの、シグナス。分かっているんでしょう」
 女――ドゥルーエラはようやく視線を合わせた。産後の疲労に彩られた顔は痩せ衰えている。目元のクマや落ち窪んだ頬が痛々しい。掛け物を握り締めた手は血の気を失い、見開いた大きな目は恐怖をたたえていた。
「……お願い…、見たくない、そんな子、いらない……許してくれない。ヴァルは、きっと私を罰する……」
「姉上は君を罰したりしない」
「怒ってるのが、分かるの……私とは目も合わせてくれない。あの男に身体を許したから……あなただって」
「君のせいじゃない。私は何も怒っていないよ、エラ。姉上もだ。怒っているとすれば、あのアブラクサス・マルフォイに対してだけだ」
「嘘よ! そんなの嘘!! 嘘をつかれるくらいなら殴られて、罵られた方がずっとマシなのに……!!」
 鋭く遮ったドゥルーエラは、寝台から跳ね起きるようにしてシグナスに、いや、赤ん坊に手を伸ばす。シグナスは咄嗟に赤ん坊を守るように彼女から身を退いた。その何気ない仕草が、彼女の心にどう働きかけたのか。ドゥルーエラの目が瞬時に憎悪に彩られる。
「興奮したら身体に障る……」
「あなたが私を怒らないのは、私を愛していないからだわ! ええ…、あなたが私を娶ったのはヴァルの勧めがあったから。ただ、それだけだった!」
「私は、君を」
「嘘は聞きたくないと言ったでしょう! そうよ、だから私は頼ってしまったの。エイブは学生時代に優しくしてくれた……私を一人の女性として見てくれた。ええ、馬鹿だったわ、私。彼の本性を見抜けないで……でも、私は寂しかったの。あなたはマグルなんかの研究に没頭して、ロクに私を見もしなかった。一人で招かれたパーティーに行かなければならない気持ちが分かって!?」
 見る見るうちに涙が競り上がり、ドゥルーエラの頬を濡らす。そんな妻の姿にシグナスは言葉を失った。
 ドゥルーエラは社交的な性格で、初対面の者にもすぐに打ち解けられる。楽しいことが大好きで、物事の明るい面だけを見ているような節があった。つらいことがあっても、別の視点からとらえて笑いに変えて楽しむ。そんな女性だった。姉に勧められるままに結婚したというのは正しいが、自分にはないものを持った彼女のことを深く愛していた。言葉には出さずとも通じているのだと思っていた。
「あなたのせいよ! シグナス、あなたのせいでこんなことになったの……!!」
 その彼女から罵声を浴びせられるのは耐えられない。居たたまれなくなり、赤ん坊を連れて部屋を出たシグナスはダイニングルームへ向かった。
 住み慣れたヨークシャーの屋敷とは違って、この屋敷には屋敷しもべがいない。不義の子を身ごもり、精神不安定になっていたドゥルーエラのために用意させた屋敷は何世紀もの間打ち捨てられており、マグルが寄りつく心配はまずなかったが、今にも崩れ落ちそうな外観の陰気な所だった。無論内装は整えさせていたものの、口の堅い使用人と二人で数ヶ月間過ごさせたことがドゥルーエラの精神をさらに悪化させてしまったのかもしれない。
 暖炉の前にはほっそりとした女が立っていた。薄暗く、手入れの行き届いていない部屋の隅々までに軽蔑の視線を投げかけている。腰まで届く艶々しい髪や、顔そのものを見れば整っているのだが、恐怖心を煽る雰囲気が美しさとは程遠いものを感じさせる。
 シグナスの姉、ヴァルブルガだ。
「姉上。彼女は取り乱しているので、面会はまだ控えて頂けると……」
「分かってる。生まれたの聞いたから、その子をどうするかを決めにきたの」
 シグナスは自らの腕に抱いた赤ん坊を見下ろした。子猫のようにか細い声を上げていた赤ん坊が、ピタリと泣き止んだ。吸い込まれるようなサファイア・ブルーの目が、赤い肌とは対照的だ。
 ヴァルブルガが考え込むように歩き出すと、威嚇するようなヒールの音が響く。
「ブラック家の血を引いてるわけでもなし。純血だし、女……始末するのも考えものね……数ヶ月間あなたの家に置いてから養女に出すのがいいでしょう。我がブラック家と縁続きになりたい家ならいくらでもあることだし」
「養女には出しません。私がこの子を育てます」
 シグナスは赤ん坊を抱く手に力を込めた。
 ブラック家当主のオリオンは不在がちのため、事実上一族を動かしているのはヴァルブルガといっても過言ではない。長年、ブラック家の威光にひれ伏す人々に慣れきっていた彼女は、弟といえど意見をされたことに驚きを隠せないようだった。
「気でも違った、シグナス? この子はあなたの子じゃないんでしょう。ご覧なさい、このトウモロコシのヒゲみたいな髪……誰が見たってマルフォイの血が入ってる」
「この子の誕生の原因は私にあります……だから、私が育てましょう。真実、私の娘として。姉上からも一族の者につまらぬ噂話を慎むようお声がけ頂きたい」
「アルといい、あなたといい、相変わらず妙なところで強情を張ること……ま、いいでしょう。好きになさい。
 でも、一つだけ。この子の名前だけど、星に関連した名前は駄目よ」
「しかし、それでは」
 ブラック家に生まれた子供達には代々星に関連した名前を命名することになっている。星に関連した名前をつけられないということは、一族の者にとってブラックの血が入っていないことが一目瞭然となる。
 シグナスの言葉を遮り、
「許せないの、こればかりは。表向きはあなたの子にすることを許してあげる。エラの名誉もあることですしね……でも、血はこの高貴なブラック家のものではないのだから」
 シグナスは唇を噛み、姉を暖炉から送り出した。ブラックの分家生まれのヴァルブルガは本家のものよりもよほど【ブラック】の血に固執していた。七百年にも渡る歴史を持つ血を。その彼女が、他家の血を引く子供に【ブラック】を名乗らせる――それだけでも最大限の譲歩なのだと分かったからだった。少なくとも対外的には【ブラック】の一員だとするだけでもよしとしなければならない。
 シグナスは布の合間に指を差し入れ、小さな身体に触れてみた。柔らかな肌は熱い。小さな手を探すと、それはしっかりとシグナスの指を握ろうとした。赤ん坊ながら、縋るものを分かっているのか。シグナスは小さな額に口づけ、つぶやいた。
「今日から、お前はナルシッサとしよう。ギリシャの言い伝えで己を愛した挙句に水仙になった子がいる。お前はこれから一族中に白い目で見られることになるだろう。自分の存在を呪わしく思う日がくるかもしれない……けれど、そんな時でも己を愛することのできる強い子になってほしい……ナルシッサ。私の娘」

(2013/09/19)