濃緑の空におぼろな三日月が浮かんでいた。にじむ光に覆われ、冷たさや鋭さは感じない。まるで母親が子供に対して浮かべるような限りない慈悲の笑みを思わせた。
甲板からでてきた海賊達は一人、また一人と空を見上げては立ちどまる。呆けたように口を開いて、あるいは夢見がちな眼でぼんやりと。かざした両手を精一杯伸ばす者までいる。まるで、夜空から月をもぎとろうとするかのような仕草だった。
船長室からすべりでたスミーは怪訝な目で彼らを順々に見ていった。夜半とはいえ持ち場を長々と離れていてはどやしつけられるだけだというのに。一体何をそんな熱心に、と皆の視線を追う。だが、曇った眼鏡越しに見える月は、スミーにとっては変わり映えのない月としか映らなかった。
「諸君、何を見ているのだね?」
低く上品ぶったフックの声を真似て言うと、海賊達は大げさに飛び上がり、それから「なんだ」と安堵の声を洩らした。
「スミーのじいさんかよ。てっきりお頭だと思った。どうしたんだい? お頭とあの子は?」
一人が不安げな顔で訊くと、皆が一斉に探るような目を見交わす。
【あの子】とは、つい最近この世界にやってきた子供の一人だ。彼らのお頭の宿敵、ピーター・パンの一味に加わったらしいが、なんとその子供は女の子だった。
ネバーランドに紛れ込むのは男の子だけで、賢い女の子は決して迷い込まないことを彼らは知っていた。最初は動物園の檻に入れられた動物を見るようにその女の子を眺めていた彼らだったが、いつしか心に懐かしいものが湧き上がってくるのを抑えられなかった。男とは違うふっくらとした輪郭に薔薇色の頬、柔らかなウェーブのかかった髪。何より白いネグリジェから覗く伸びやかな足や、ほっそりとした手がとてもきれいだった。
そのウェンディを家ごとさらってくるや、お頭は自室に閉じこもってしまったのだった。彼らはひどくがっかりしたし、頬の垂れ落ちるような食べ物を独り占めにされたような不満を覚えた。もちろん、それを口にだしはしない。口にしたら最期、冷たいフックに腹をざっくりと抉られてしまうと分かっているからだ。
「朝まで二人にしろだとよ」
スミーは自分自身が責められているように感じたのか、肩を竦めてみせた。
「ああ、マイ・スイートエンジェル・ウェンディちゃん……あんなきれいな子がお頭の欲望の餌食になっちまうなんて……」
ビル・ジュークスが刺青だらけの身体をよじって、ハラハラと涙を流した。大の男が、それもいかつい男がそんなことをしているのは、はっきり言って気持ち悪い。けれど、仲間の海賊達は気にするどころか、そうだそうだと賛同の声を上げる。
「おいおい、言葉にゃ気ィつけろ。お頭のフックで切り裂かれたかぁないだろ」
スミーのたしなめにもなんのその。お頭本人がこの場にいないというのが彼らを大胆にさせたのだろう。次々と悪口が伝染していく。
「あんな小さな子に夜伽をさせるなんて犯罪だ! 淫行だ!!」
「お頭はロリコンだったに違ェねえや。一体いくつ年が離れてると思ってるんだ?」
「はあ、でも俺、お頭が羨ましい……」
ヌードラーのつぶやきに皆の視線がお頭の船室に集まる。ランプはまだ灯っていたが、いつになったら消えることやら。一斉に吐かれた溜め息が夜の静けさを破った。
*****
さて、固く閉ざされた船長室の内側。手下の海賊達に散々ボロクソに言われているジェームズ・フック(仮名)は今まさにこけ下ろされてしかるべき行為に及ぼうとしていた。三十代半ばの男盛り、紳士ぶっていたってたまるものはたまる。一人で欲望を処理し続けて数十年。孤独を噛みしめてする一人遊びは涙がこぼれそうなほどに切なかった。今日こそ、それに終止符を打つのだと決意し、ソファに横たえた女の子に近づいていく。
迫りくる運命にも気づかずに女の子――ウェンディは軽く寝息を立てて眠っている。フックの完璧なまでの紳士っぷりに騙され、勧められた飲み物を口にしたためだ。
睡眠薬の効き目がでるまでそう長くはかからなかった。適当に身の上話を語らせて相槌を打っていたフックは、彼女のまばたきの回数が増えてきたのを見て取ると、邪魔だと言わんばかりにスミーを追いだした。根は優しいスミーは子供を相手にするなんてとんでもないと非難の目を向けたが、鉤の手を脅すように見せつけると、スミーも自分の命には換えられない。ほうほうの体で逃げだした。
フックがウェンディを自分のものにしようと思ったのは男の貪欲な本能のためでもあるが、実はもう二つばかり大きな理由があった。
一つはウェンディが宿敵の大切な人であるということ。一緒に暮らしている迷子達にさえそこまでの執着を見せなかったピーター・パンがウェンディを特別視していることは明らかだった。その大切なウェンディを憎き子供の手から奪い取ってやったら、さぞや爽快な気分を味わえるに違いない。フックはざっとこんな風に考えた。
もう一つはウェンディの反応にあった。ウェンディは初めて言葉を交わした時から物怖じせずにフックの目を見つめてきた。世界中から恐れられる人物になることを願い、日々そのように振る舞っていたフックだが、ふとした時にどうしようもなく寂しくなることがあった。仲間であるはずの海賊達でさえ、彼に胸の内を覗かせることはない。彼らとの間に共通の話題は少ないから当然のことかもしれないが。
ウェンディと出会ったのがちょうどそんな時期だったせいもあるが、フックは自分を怖がらない彼女をとても気に入った。一目惚れともいえたかもしれない。だが、人を愛さなくなって久しいフックにはその感情がよく思いだせなかった。
今、フックはウェンディの顔を覗き込み、ほうっと溜め息を洩らした。まだ幼さを残した頬はクリームのようになめらかだった。マメの浮かんだゴツゴツした手が急にひどく汚いもののように思え、フックは一旦手を離した。ウェンディの規則正しい寝息に少しずつ落ち着きを取り戻すと、ソファに片膝をかけ、ウェンディの身体に覆いかぶさった。
眠りに就くと、体温が上昇する。寝入って間もないとはいえ、ウェンディは肌寒かったのかもしれないし、ひょっとしたらぬいぐるみと勘違いしたのかもしれない。フックの衣服が、髪が身体をかすめると両腕を伸ばして抱きしめ、あたたかな身体を引き寄せようとした。相手が無意識のうちにも自分を求めているのだと都合よく解釈し、フックは固く閉ざされた神殿に押し入ろうとした。
まさにその時だった。ウェンディの眉根が歪み、嫌がるように首を振った。そして、何かをささやいた。やはり拒絶されるのだろうか。震える口元を見つめ、フックは耳を澄ました。
「……パパ……めん…、なさい……」
パパという言葉にフックは胸を押さえ、かきむしった。ウェンディは切れ切れの言葉で両親に謝っていた。家をでたこと、ずっと家に戻っていないこと。いつか帰るから、忘れないで……そんなことを繰り返した。
フックは結婚したこともなければ、子供も持ったことがない。だが、身体を寄せられ、たどたどしい謝罪の言葉を聞いていると悲しみと、何かをしてやりたいという気持ちにさせられた。子供の悩みを少し軽くしてやりたいという、親の気持ちに。
フックは身体を少しずつずらしながらウェンディの身体を抱き上げ、自分の膝の上に座らせた。まだ何かをつぶやいているウェンディの背を軽く叩いてやりながら、忘れかけていた子守唄を口ずさんだ。ウェンディはまだ両親の夢を見ているのだろうか。頬を一筋涙が伝った。
*****
朝になってウェンディと一緒に船室からでてきたフックの目元には濃いクマが浮かんでいて、海賊達は一晩中頑張っていたせいだろうと決めつけた。
確かにフックは頑張っていた。手下達の想像とは違っていたけれど。
欲望と良心の天秤はウェンディの寝言のせいですっかり逆になってしまい、大人になりかけた身体を身近に感じながらも一線を踏み越えずにいたのだ。ほしいものは必ず手に入れるという信条を覆すのは、彼にとって並大抵の努力ではなかったのだが。
ウェンディは辛くも難を逃れたわけだが、そんなこととは知らず、無邪気に手を振って「またね」と言う。その言葉を頭で繰り返しながら、フックは自室に引き下がり、ベッドの上に身を投げだした。けだるい全身を幸福感が包んでいたが、彼はそれがいつも眠る直前に感じる類のものだと思い込んでいた。
2004/09/29