子供は両手で目元を覆ったまま、身体を震わせている。よくもこう長々と泣き続けていられるものだ。かれこれ二時間はこのままだ。よほど物置にでも閉じ込めておこうかと思ったが、子供はえてして暗闇を怖がるもの。一層泣きわめかれてはかなわんと思ったのだ。
国王に楯突く野蛮人どもを先導する、あの忌々しい男の子供だ。夜襲をかけた折に、寝室に片隅に小さくなっていたのを見つけた。家族はこの子供がいないのに気づかなかったのか。それとも我らの襲撃に気づき、逃げるのに必死で、この幼い子供のことを思いやるいとまもなかったのか。
幾度となく煮え湯を飲まされていた奴の家族を殺し、その首を送りつけてやったならどんな顔をするか。昂揚した気分のままにサーベルを振り上げた私に、子供はヒッと声を詰まらせた。いっぱいに見開かれた目は大きく、残忍な侵略者の姿を映した。子供の唇が、パクパクと動いた。パパ、たすけて…――声は聞こえなかったが、それは叫びのように心に響いた。私の意思を無視して腕がとまった。刃は子供の首のすぐ横で制止し、その勢いでふわりと髪がなびいた。
子供は顔をくしゃくしゃに歪めて、泣きだした。あまりの恐ろしさに喉が張りついているのか、依然として声は洩れなかったが。興をそがれ、サーベルを下ろした。
おかしなことだ。これまで女子供を殺そうと気に咎めたこともなかった私が、何故この子供を殺さなかったのか。小さな身体を抱き上げてみる気になったのか。
床には小さな水たまりができていた。子供は私の手の中で一層身体を硬くし、カチカチと歯を鳴らした。涙に誘発されたのだろう鼻を激しくすすすりながら。汚らしいとは思わなかった。ただ私の口は機械的に言葉を紡いだ。子供に名前を問うと、首を振った。子供の年齢はよく分からないが、おそらく三、四にはなっているだろう。喋れないということもあるまいが。
子供を連れて屋敷をでると、私の腕にあるものに気づいた部下達は非難がましい目を向けてきた。子供を戦に巻き込むなど紳士らしくないとでも? くだらない騎士道精神とやらが、我らを甘くする。血にまみれた戦いに何を求めるというのか。女子供、力ない者達の命を奪うのは残虐な行為だと罵られる。所詮は命の奪い合いに変わらないというのに、上品に見せかけたところでどうだというのか。くだらん。
燃え上がる屋敷が天を焦がした。深い霧の海を散らすように轟音を上げて。煙に巻かれぬよう、早々と馬を走らせた。子供はだらりと憔悴しきった様子で、私の身体に寄りかかっていた。
捕虜としてすぐにでも将軍のもとに連れていこうかと思ったが、すでに夜も深まっていたので、ひとまず私の部屋に通した。子供は逃げるかもしれぬという疑いを持てぬほど、怯えているようだった。腰が抜けているのか、自分の足では立てなかった。子供を置いてシャワーを浴びてきたが、戻ってきても子供は亀のように手足を縮めたままだった。
「お前の名は?」
子供の前にいき、先ほどと同じ問いをもう一度繰り返した。けれど、答えも同じ。沈黙が返ってきただけだった。
「お前はこれから捕虜になる。訊かれたことには素直に答えろ。お前の首を刎ねて、父親に送りつけてやってもかまわんのだぞ」
子供はビクンと身体を跳ね上がらせた。そろそろと目元から手を離し、私を見た。そして唇を動かした。何かを言おうとしているようだった。けれど、声はでなかった。自分の声がでていないのが分かると、子供は一層必死に話そうとする。死にたくないのだろう。だが、口から洩れるのはヒ、とかアとか言葉にならぬものばかりだ。
【敵】に見つかったら殺されると、あの屋敷で一人息を殺していたせいだろうか。子供は声を失ったのかもしれない。
子供の真っ赤な目から、またポロポロと涙がこぼれた。しきりに口を動かしている。パパ――唇の動きで、父親を呼んでいるのが分かった。
子供というのは、こんなにも父親を追い求めるものだったのだろうか。別れた妻に抱かれていった、小さな娘のことが不意に思いだされた。月に一度は娘に会いにいく権利とやらが与えられたが、私はそのありがたいものを一度として行使したことはない。別れた妻は、最初の年こそ娘の成長を記した手紙を何度か送りつけてきたが、返事がなしのつぶてでは徒労に終わるだけだと思ったのか、いつしか絶えた。
私は一度として彼女からの手紙を待ったことはない。くれば、事務的に読む。ただ、それだけだった。養育費を十分に支払ってやっている代わりに、娘の成長を心配したこともなかった。支払いさえなければ、娘があったことさえ忘れていたかもしれない。
だが、今、おぼろげだった娘の記憶が鮮明になり、目の前の子供に重なった。私の娘も、この少女くらいになっただろうか。
「字は? 書けるのか?」
聞き慣れない声だった。自分の声とも思えない。少女は唇をへの字に曲げたまま、頷いた。
少女を抱き上げ、机のところまで連れていった。何をされるのかと緊張しているようだったが、紙と、インクに浸した羽ペンを渡すと、少女の恐怖しかなかった表情に戸惑いが生まれた。
「名前を書いてごらん、ここに。さあ」
少女は小首かしげ、だが言われたように手を動かした――『Susannah』――たどたどしくつづり終えると少女は筆を置き、不安そうに私を見上げた。
「スザンナ……皆にはなんと呼ばれていた? スーザン?」
こくんと頷き、スーザンは不思議そうに私を見た。スーザンの中からゆるゆると恐怖が溶けだしているようだった。こわばっていた表情が子供の何処か夢見ているようなあどけないものに取って代わる。
「スーザン、聞きなさい。今日からしばらくお前の家はここになる。お前の父親が迎えにくるまで、お前はここにいるんだ。いいな?」
この私が。ウィリアム・タビントンが、まるで機嫌を取るように話しかけるとは。それも、こんな小娘に。
いいや、こうする方が扱いやすくなるからだ。泣きわめいて煩わされるよりは、手なずけた方がいいに決まっている。それに、もしもこの少女が私になついたとしたら、あの男はどんな顔をするだろう? ただ殺すよりも、その方があの男の心を傷つけるに違いない。
従順に頷くスーザンの頭を撫でた。柔らかな髪が指に心地よかった。
2006/04/30