マルフォイ家の当主、アブラクサスはまだ昼間だというのにブランデーグラスを傾けていた。端正な目鼻立ちだが、酒気に赤らんだ目や荒れた肌が乱れた生活を思わせる。間近で【姿あらわし】特有の炸裂音を聞いても動じず、残っていた液体を一気に飲み干すと、意外にもしっかりとした口調で言う。
「お戻りでしたか、卿。シグナスの反応はいかがでしたか?」
「使えそうにない。君のせいだな、エイブ。彼女に余計なことをしでかさなければ、別の手段も考えられたのだが」
「あれはあちらも望んだこと。私一人のせいではないですよ」
クク、と楽しげに喉を鳴らすアブラクサスにヴォルデモートは冷ややかな目を向けた。
マルフォイ家はサラザール・スリザリンと所縁のある家柄だ。ホグワーツ在学中にトム・リドルの血筋を知ったアブラクサスは、何かと援助を願い出た。それは偉大なる魔法使いの血を重んじたばかりではなく、将来有望な人間に恩を売りたかったためだろう。便利なパトロンではあったが、有能な部下とは言い難い。彼のミスから厄介事が生じたことも一度や二度ではない。
その最たるものがブラック家の恨みを買ったことだろう。シグナス・ブラックの妻、ドゥルーエラを孕ませたのだ。
純血は貴重だ。それが私生児であったとしても処分することは難しく、ドゥルーエラは望まれぬ子供を泣く泣く産むしかなかったらしい。彼女を学生時代から実の妹のように可愛がっていたヴァルブルガは激怒し、イギリス魔法界でのマルフォイ家の立ち位置は微妙なものになった。
早めに始末すべきかもしれない。ヴォルデモートは殺意を見事に覆い隠した柔らかな声音でささやいた。
「シグナスの娘に会った」
「どの娘です?」
含みを持たせる言い方にかまわず、続ける。
「ヴァルブルガによく似た子でね。純血に固執した、美しい心根の子だった」
「ふむ…、それはもしかするとその扉の向こうにいる子のことですかな?」
ヴォルデモートは頷き、杖を振り上げた。瞬時にドアが開き、寄りかかって聞き耳を立てていたらしい少女が支えを失って部屋に倒れ込んだ。顔を真っ赤にして素早く立ち上がった少女は、突然のことに言うべき言葉を失くしてしまったかのようだ。ヴォルデモートは笑いかけた。
「ベラトリックス。フルー・パウダーでここまできたのかい? 折角のドレスが灰で台無しだ」
声をかけられたことで目的を思い出したのだろう。挑みかかるように睨みつける。
「あなたにお願いがあってきたんです、ヴォルデモート卿」
「お願い?」
お願いというよりも命令の言い方で、ベラトリックスは続ける。
「下の妹を引き取ってください」
「面白いことをいう子だ」
「どなたです?」
答えたのはヴォルデモートではない。ベラトリックスの言い方は無礼だった。自分が無断で屋敷に入り込んだ侵入者という立場も忘れたかのように。ある程度の常識を持っている大人であればその言い方に憤慨するに違いなかったが、アブラクサスにとっては興味を惹いただけに過ぎなかった。
「私かい? リトル・ミス・ブラック、北欧出身の成金がいると聞いたことは?」
「それでは、あなたがアブラクサス・マルフォイ」
「君の下の妹というとナルシッサ、だったね。シグナスの秘蔵っ子の」
「お父さまはあの子がかわいそうだからかまってやってるだけよ!」
ヒステリックに叫ぶベラトリックスに、アブラクサスはさらに口を開こうとした。ヴォルデモートはそれを手で制し、柔らかに告げる。
「エイブ、君は外してくれないか? 彼女は私に会いにきたのだから」
「もちろんですよ、卿」
恭しく会釈をすると、アブラクサスはブランデーのボトルを片手に部屋を出て行った。
ドアが閉じられると、ヴォルデモートは杖を振る。カチリという音にベラトリックスの顔にやや緊張がよぎった。自分からこの屋敷を訪れたというのに、素性の知れぬ男と二人きりになったことに不安を感じたのだろう。ブラック家は代々続く名家で魔法界では王族にも等しい権力を持っている。反面、隠れた敵も多いのだ。おそらくは他人に気を許さぬよう教え込まれているに違いない。
ヴォルデモートはそんな少女の心を読み、静かに言った。
「さて、ベラトリックス。何故君の妹を私の養女にしてほしいと考えた?」
「キライなの、あの子。でも、ブラック家の血は引いてるわ。ブラック家と親しくできると、あなたにとってもメリットはあるでしょう?」
「さて、どうだろう……君ならいざ知らず、そのシシー? そんな子を養女にしてもね」
君ならいざ知らず、の言葉に顔を赤らめたのをヴォルデモートは見逃さなかった。興奮に彼の目が一瞬異様な輝きを見せたが、幼いベラトリックスは気がつかない。淡々とした口調にだけ注意がいっているのだ。
「君はまだ魔力を開花させていない。そうだろう?」
魔法使いの子供が無意識にでも魔法を使えるようになるまでには個人差がある。物心がつかない頃から魔力を放出させる者もいれば、ホグワーツに入学する頃になっても魔法を操れずにスクイブのレッテルを貼られる者もいる。
早く目覚めたからといって魔力が強くなるわけではないし、遅く目覚めて優秀な魔法使いとなる者もいるというのに、どの親も早い目覚めを期待するのはどうしたことか。それも、純血の家柄だけならば分かるが、【穢れた血】を同胞とするような【血を裏切る者】でさえも。
そう、実のところ、皆は見下しているのだ。魔力を持てない輩のことを。気取って平等主義を装っているだけなのだ。
「バカにしてるの!? 私はスクイブなんかじゃ」
「もちろん君はスクイブなどではない……感じるんだよ。君の身体に眠っている力を。今にも噴出しそうな強い、強い力を。君は私と同じ。魔力を開花させれば最後。人に恐れられるようになる」
怒りをあらわにするベラトリックスが、ヴォルデモートにとっては好ましい。この子供に興味を持ったのはこの一点だ。ごまかしの一切ない、澄んだ純血の心。だからこそ、ほしい。
「私のファミリーネームを聞きたがったね、ベラ? 君が察するように私は純血というわけではない……ただし、この身に流れる血の半分はサラザール・スリザリンの高尚なものだ」
「嘘よ」
「証拠を見せようか」
答えるいとまも与えず、振った杖の先端から灰色の蛇がほとばしり、厚い絨毯の上でのたうった。口を裂くように開くと、今にもベラトリックスに喰いつきそうに牙を向ける。
悲鳴をあげかけたベラトリックスの耳に入ってきたのは、歯と歯の間から洩れ聞こえるか細い音だった。蛇はピタリと動きを止めると、眼前の獲物からヴォルデモートの方へと向き直った。懐くようにヴォルデモートの身体に擦り寄ったばかりか、大人しく頭を撫でられる姿に呆気にとられる。
「すごい……なんて、力」
ベラトリックスは唾を呑み込み、眼前の光景を眺めていた。パーセルマウスは希少だ。後天的に覚える者もいるようだが、蛇語の習得は他の語学の追随を許さないらしい。意思の疎通どころか思うがままに従わせる能力を見るに、この男の蛇語は先天性のものだろう。サラザール・スリザリンの血筋というヴォルデモートの言葉は信じるに足るものと思えた。
ベラトリックスの目に浮かんでいた蔑みの色が消え、賞賛に輝くのを見てヴォルデモートは笑った。
簡単だ。人の心を思いのままに操るのも蛇と同じだ。同級生も、教授達も、仕事で知り合った客達も誰もかもが簡単に落とせる。父親によく似た甘い顔を捨て去っても、その力は衰えない。
「君は私とよく似ているんだよ、ベラ。私は父に捨てられ、母は私を産むとすぐに亡くなった。君の両親は健在だが、君のことを見ていない。二人とも親の愛情を知らない」
「そんなことない! 二人とも私を」
「愛しているなら何故君はここにきたんだろう? 妹にかまける時間は、全て君に注がれるべきだ。純血を凝縮させたように美しく、強い君のことを。
そう、ベラ。私は君がほしい。君を娘にできればと思うよ。君が本当の父親から注がれなかった愛情は、私が与えてあげよう。君を傷つけるものは私が全て消してあげよう。ベラ、この私の娘になってくれるかい?」
ただ、恐怖で言いなりにするのは容易い。だが、心を読み、恭順させることにこそ意義があるのだ。相手の最も望むものを提示し、従わせる。自らの命さえも捨て去り、この方のために尽くそう。そう思わせれば、ただの駒以上の働きが見込める。アブラクサスのような使い捨ての駒ではない。プロモーションし、ゲームを勝利に導く優秀な駒となる。
幼いベラトリックスには、自らの目に入るもの以外は理解できない。シグナスやアンドロメダが愛しているのはナルシッサだけ。母でさえも、虐待という形を取ってはいるものの関心があるのはナルシッサだけのように思えていた。
でも、この人は違う。ナルシッサではない。私を必要としてくれている。
「は、い……」
その言葉を紡いだ瞬間、それは魔法のように心を縛った。
「それでは、父にキスを」
蛇をまたいで前に立つと、ヴォルデモートは片膝をつく。間近に見る蝋人形めいた不気味な顔立ちだ。同じ人形のような、という表現を使っても整ったシグナスの顔とはまるで違う。けれど、嫌悪感も恐ろしさも湧かなかった。ベラトリックスはそっと彼の肩に手をかけ、乾いた頬に口づけた。【父】は全能であり、疑うべくもない存在だからだ。
(2013/09/03)