重々しい正面玄関の扉を押し開け、屋敷内に入ると、ベラトリックスは駆けだした。息をつく間もなく二階の父親の部屋まで行くと、やや強めにドアを叩いた。けれど、返事はない。ドアを開けたが、本の積まれた机の前に父親の姿はない。ドアを閉め、中に入っていった。
(お父さまはまたあの子のところにいってるんだ)
下の妹が生まれて以来、父親は自分に見向きもしなくなった。ベラトリックスは唇を噛み締め、心の中で叫んだ。
(あんな子、大キライ! どっかにいっちゃうばいいのに)
お母さまは病気だから、身体を休めなければならないんだ――父親に連れ出され、家からいなくなった母親と再会した日のことを、ベラトリックスは忘れられない。もう一人妹ができたことを父親に知らされ、アンドロメダと一緒に母親を迎える準備をしていた。執事達がとめるのも聞かずに屋敷内をリボンや花で飾りつけ、一番いいドレスを着て。ドゥルーエラは決して家庭的な母親ではなかったが、幼い姉妹にとっては父親と同じくかけがえのない存在だった。家にいる間もろくろく顔を合わせなかったとはいえ、丸々半年間家を空けられると寂しかった。
母親は産後とは思えないほど以前と変わったところがなかった。髪は流行の形にきっちりと結い上げてあったし、化粧の跡も見えないのに美しい顔立ちの何処にも疲れの影はない。娘達のキスを代わる代わるに受け、「ただいま」とささやく低い声も同じだった。むしろ迎えにいった父親の方が疲れて見えた。心持ちうつむいていたし、髪が僅かに乱れていた。
「おとうさま、だいじょうぶ?」
心配そうに訊くアンドロメダに、父親は「なんでもないよ」と優しく返した。そんな父親を見る母親の目は、子供心にも思わずひやりとするほど冷たかった。ベラトリックスは不審に思いつつも母親のスカートを引っ張った。
「ねえ、あかちゃんは?」
妙な沈黙が落ちた。母親は石のように硬くなった表情を、なんとか和らげようとしているようだったが、引き攣ったように口元が動いただけだった。
「ねえ、あかちゃんは? どこ? ねえったら」
ベラトリックスは訳が分からないまま、もう一度問いを繰り返した。不思議でならなかったのだ。妹が生まれたと聞いていたのに、妹の姿は何処にもなく、両親は妹のことを口に出しもしない。
母親がしゃがみ、ベラトリックスの両肩を押さえつけた。
「ベラ、赤ちゃんなんていませんよ」
「なんで? どこいったの? いもうとがうまれたってきいたのよ」
「あなたの妹はアン一人だけよ。お母さまの可愛い子供達はベラ、アン、あなた達だけですからね」
でも、と言いかけるベラトリックスを遮るように母親は背を向け、階段を足早に上っていった。当惑するアンドロメダとベラトリックスの頭を慰めるように撫でると、父親も母親の後を追っていった。
その日から数日間、母親の部屋の前では金切り声と何かをぶつけるような物音が絶えなかった。両親が争うところなど知らなかったベラトリックスとアンドロメダは様子を窺いにいっては、ドアを悲しげに見つめて部屋に戻っていった。
赤ん坊が家にやってきたのは、母親のすすり泣きがドアから洩れるようになった数日後だった。アンドロメダは両親が仲直りをしたのだと安心していたようだったが、ベラトリックスはそうは思えなかった。そのブロンドの赤ん坊の命名式は父親の手でひっそりと行われ、母親は姿も見せなかった。
そして母親は以前にもまして家を空けるようになり、数日間顔を見せないことも当たり前になっていった。たまに家族がそろった夕食も、母親は決して父親を見ないことに気づいた。無口な父親を家族の輪に入れるのは母親の役目だったのに。
互いに口に出すのを聞いたことはなかったが、ベラトリックスは両親が愛し合っているのだと思っていた。ドゥルーエラの勝気な目が優しく細められる時、父親の名をささやく時、引き結んだ唇が綻びる瞬間など、父親相手でなければ見せないあたたかみがあった。
(お父さまとお母さまの仲がわるくなったのは、あの子のせいだ……ナルシッサ!)
何故夫婦の絆を強めるはずの赤ん坊が、亀裂をもたらしたのか。ベラトリックスは考えなかったし、考える必要もないと思っていた。子供らしく、この世には善悪の二つしかないと思っている彼女にとって、ナルシッサは【悪い子】でしかなかったのだ。
ベラトリックスにとって一番の味方であるはずのアンドロメダも、最近ではナルシッサの部屋に入り浸りになっている。「おとうさまだっていつもいっしょにいてあげられないし、一人ぼっちにしたらシシーがかわいそうでしょ」と言う妹の気持ちが、ベラトリックスには理解できない。赤ん坊なんて泣きわめくか寝てるかのどちらかだし、寂しいかどうかなんて分かるはずがない。世話役に乳母をつけてやっているのだから十分なはずなのに、率先して歌を聴かせてやったり、本を読んであやそうとするなんて。
前はいつも一緒に遊んでいたのに、この頃では誘っても滅多につきあおうとしないアンドロメダとも距離が開いた。家族がバラバラになったのはナルシッサのせいだ、とベラトリックスは思う。幼い心に芽生えた、初めての憎しみだった。
(あの子さえいなくなれば……そうすれば、また全部元通りになるのに)
ここのところ、父親が難しい顔をして書斎にこもっていることに気づいていた。ひょっとしたら災いの元である赤ん坊を手離す気かもしれない。ベラトリックスはヴォルデモート卿と名乗った男がやってきた理由を、自分の考えと結びつけた。ブラックはイギリス魔法界の王族に等しい家柄だ。貧相な赤ん坊といえど、ブラック家と縁を結びたいがために養女にほしがる家はいくらでもあるに違いないと。
(そうよ! あの子がいたら、この家はわるくなるばっかりだもの。それが一番いいんだわ! そしたら、お父さまも前みたいにあたしをかわいがってくださるし、お母さまも家にいてくださる……お父さまとお母さまも、ちゃんと仲なおりできるわ。きっと)
どうしてもっと早く気づかなかったんだろうと、ベラトリックスの顔がパッと明るくなる。椅子によじのぼったベラトリックスは「ヴォルデモート卿」のサインがある封筒をつかみ、ドレスをたくし上げた。ガーターベルトとストッキングの間に挟めると、用心深い足取りで部屋を出て行く。ふくろうに命令すれば、おそらくは差出人の居所を聞き出すことが可能だろう。ヴォルデモート卿にナルシッサを差し出すのだ…――一度壊れたものがそう簡単に元通りにならないことが、幼いベラトリックスには分からなかった。