蝶々は囚われ、籠の中に - 2/4

(最初からうまくいくはずがない、か)
 扉を閉めた途端、ヴォルデモートの顔が彫像のように硬くなった。
 シグナス・ブラックが申し出を断るだろうことは予想できていた。腐ってもブラック――姉弟の影にかすむような特長のない男でもプライドだけは一人前に持っているだろう。純血のみを重んじる驕った一族なればこそ新参者からの誘いに「ノー」を言うものの、思想には同調するに違いない。そして、いずれブラック家を上に立てる形で力を得られるはずだ。七百年もの歴史を誇るブラック家の名の下、純血の一族はこぞってマグル排斥運動を行うだろう。今は形ばかりのトップなど、どうでもいい。まずは歯車を回すことが先決だ。マグルを受け容れることに慣れきった世界に改革を起こすために…――そう思っていたのだ。
 まだトム・リドルと名乗ってホグワーツに通っていた時分、ブラックの当主オリオンとはいい関係を築けていた。旧友として彼を取り込むことができれば一番簡単でよかったのだが、彼は女遊びに夢中でろくろく家には寄りつかないと聞く。さらに悪いことに実質的にブラック家の舵を取っているのは、彼の妻ヴァルブルガなのだ。
 ヴァルブルガ・ブラックが自分を、いや、トム・リドルを避けていることをヴォルデモートは知っていた。純血主義者の彼女は、トム・リドルの半分混ざったマグルの血を疎んでいた。混血の男に惹かれることを恐れていたのだ。心の奥底に揺れ動く好意を隠すために、敵意を向けてきた彼女を動かすためには直接的な接触は避けねばならない。
 シグナスはその点で駒にしやすい男だと思っていた。それが、いざ話してみるとどうだろう。あの何処か病弱にさえ見える容姿とは裏腹に、芯の強さが窺い知れる。皆が言うような、誰かの言いなりになる男ではない。
(さて…、あの手の男を味方に引き入れることができるものか)
 無理だろうな、とすぐに打ち消した。
 ブラック家の協力なしに魔法界に革命を起こすことはできない。オリオン・ブラックとは連絡が取れず、ヴァルブルガと親しいドゥルーエラにはマルフォイ家との繋がりから毛嫌いされている。ブラックと姻戚関係にあるロジエール家の者にもまだ信頼が浅く、シグナスも使えない。となると、残りは変わり者と名高いアルファード・ブラックだけが頼みの綱か。

 思い巡らせながら玄関ホールまで下りていった彼は、見送りがないことにも気づいていなかった。暖炉に見向きもせずに正面玄関を開けて外に出た瞬間、まぶしい日差しを受けて「うっ」と声を上げた。光を恐れるかのように片手を上げ、陽光を遮ろうとする様は吸血鬼めいている。呼吸を一つ、二つするうちに少し慣れてきたのか、そろそろと手を下ろすと、苛立ちをぶつけるかのように歩き出す。
 屋敷から門扉へと続く道の両端にある前庭には、低木とツルクサの巻きついたアーチが点在している。ちょうど今が咲き頃なのか、様々な薔薇に彩られていて、堅苦しい屋敷の雰囲気をかなり和らげていた。

 ヴォルデモートは不意に足をとめた。薔薇に見惚れたのではない。彼の視線はそう遠くないアーチの側にいる少女に向けられていた。
 まだ幼い少女だった。鮮やかなブルーのドレスはふんだんに生地を使っているらしく、袖やスカートのふくらみが小さな彼女の身体を二倍に見せていた。けれど、裾から覗いた足がひどく華奢なせいもあり、全体的に可憐な印象が強い。きっちりと眉辺りでそろえられた前髪や、サラサラと腰の辺りで揺れている後ろ髪は日の光の下であってもその黒みを失っていない。鴉の濡れ羽のように美しい黒髪だ。
 少女は見られていることにも気づかず、背伸びして小さな手をアーチの上部に向けていた。薔薇を手折ろうとしているのかと思ったヴォルデモートだったが、すぐにそうではなかったことに気がついた。彼女が飛び跳ねた瞬間、薔薇の上で羽を休めていた蝶々が風に乗って飛んでいったのだ。少女は「アッ」と叫び声を上げ、地団太を踏んだ。そのいかにも子供らしい悔しがり方に、ヴォルデモートの口元に笑みが浮かんだ。微かに洩れた笑い声に、少女はを振り返った。

 正面から見ると、少女がまだ小さいながらもひどく整った容姿をしていることが分かった。濃く形のいい眉に、黒々とした睫毛に縁取られているせいで遠くからでもはっきりと分かる目。少しツンと上がった鼻に、引き結んだ唇が愛らしい。
「だれ、お前。見ない顔だわ」
 目下の者に言うような口調だった。が、不快感は湧き起こらず、ごく自然に聞き流せる。おそらく普段からこういった口調で接することに慣れ切っているためだろう。
「そういう君は誰だい?」
 少女は鼻にシワを寄せて、ヴォルデモートのすぐ側までつかつかとやってきた。
「わたしが先にきいたのよ、答えなさい」
「まいったね、強気なお嬢さんだ。私はヴォルデモート卿……皆からはそう呼ばれている」
 卿という言葉に、少女は目を僅かに大きくした。
「ファミリー・ネームは?」
「ないよ。私には昔から【家族】などいないのでね。それで? 君の名は?」
「ベラトリックス・ブラック」
吐き捨てるように言うと、ヴォルデモートを上から下まで無遠慮に眺め回す。
「ファミリー・ネームが言えないということは、純血じゃないわね。お前、【穢れた血】? なぜ、お前のようなものが、この家にいるの? お母さまがしったら、どれだけおいかりになるか」
「君の父上の許しは得ているよ、ベラトリックス。今日は君の父上に用があってきたんだ」
 シグナス・ブラックとドゥルーエラの娘か、とヴォルデモートはほくそ笑んだ。
 【穢れた血】という言葉は、まだ六つか七つの少女には不似合いだ。可愛らしい声に、蔑みの色が見えるのは。ヴォルデモートはしかし自分が悪し様に言われているというのに、この少女に好感を抱いた。ただ一点の【穢れ】も赦せないといった風な潔癖な物言いが気に入ったのだ。まさに純血の中の純血。優れた血を結晶にしたような、きれいな子だと。

 ベラトリックスは「お父さまに」とささやき、そっと目を伏せた。
「父の客人とはしらず、しつれいを言いました。おゆるしください」
「いいや。謝るようなことは何一つない」
「あの……父にどのような用があったのでしょう?」
 言葉こそ丁寧になったものの、少女の口調には挑みかかるような響きがある。前髪の陰になってよくは見えないが、きっと眉をつり上げて訊いているに違いない。父親の客人だからといって、純血以外の者に心から敬意を払うことはできないとでも思っているのだろう。
 彼女を見下ろしたまま、口を開こうとしないでいると、痺れを切らしたのかベラトリックスが続けた。
「シシーのことでしょうか?」
「シシー? なんだい、それは」
 ヴォルデモートは訊き返した。人か、物か、出来事なのかさえ検討がつかない。
 ベラトリックスは小さく頷き、良家の子女らしくちょこんとお辞儀をした。
「ちがうのなら、いいです。失礼しました」
 そして、もう話すべきことは何もないとばかりに背を向け、屋敷の方へと歩いていく。
 ふわりと吹いた風が彼女の長い髪と、ドレスの裾を揺らした。黒とブルーの柔らかな波は、先ほど彼女が捕らえそこねた蝶々の翅を思わせた。濃く、はっきりとした色合いとは反対に、あまりにも儚いその動きには心駆り立てられるものがある。ヴォルデモートはおもむろに杖を取り出し、彼女の背に向けた。が、すぐに思い直したように首を振ると、その場から【姿くらまし】た。