ヴァルブルガの弟で、アルファードの兄の……名前は何だったかな。シグナス・ブラックを語る時、人はそんな風に反芻する。もっとも彼自身が話題に上ることはほとんどないことだったが。
才気と活気に満ちた姉や、突飛な言動で周囲を騒がす弟と違い、彼は静かな男だった。自分ではそのつもりはなくとも、話しかけづらい空気を漂わせていると言われることが多い。友人と呼べる人間は片手で数えるほどで、社交の場に招かれてもいつの間にか姿を消してしまう。
そんな彼の元に、今日は珍しくも客人が訪ねてきた。姉や、義兄の当主オリオンではなく。
シグナスは困惑しつつも客人を応接間に迎えた。特に親しい友人というわけではない。先月行われたマルフォイ家のハウスパーティーで見かけただけの男だ。名をヴォルデモートといっただろうか。
思い巡らすシグナスに、客人の方から口を開いた。
「ブラック卿。わざわざ時間を割いて頂いたことを感謝いたします」
「おかけください。今、茶を用意させましょう」
「それでは、お言葉に甘えて」
ニッと笑うと、細面の顔いっぱいに口が広がる。
この男は一体いくつなのだろう。呪いの影響か、顔は火傷を負ったように所々引きつっており、元の顔立ちが分からない。笑い方を見るに二、三十のようにも見えるが、目は違う。老成した目だ。世の中の全てを見てきたような穏やかで、しかし深淵のような暗い目。こんな目は若者には似つかわしくない。
シグナスがテーブルを挟んで差し向かいになると、彼は膝を進めた。
「何故、私がここに伺ったか。正直に申しましょう。私が真にお目にかかりたかったのは卿ではなく、レディ・ヴァルブルガ。
が、私のような血筋も知れぬ者と面会して頂けないだろうと思い、先にあなたに目通りを願ったというわけです。あなたは稀に見る博愛主義者のようだったので……こうしてお目にかかれたことで、見込み違いでなかったことも確かめられた」
「姉にどのような用で?」
「魔法界の死に至る病を根絶するため、ブラック家の力をお貸し頂きたいと思いましてね」
「死に至る病?」
ヴォルデモートはポンッと音を立てて現れたティーカップを手に取ると、ますます広がる笑みを隠すように口元に持っていく。
「魔法界を根絶から揺るがすものを、なんとお考えですか、ブラック卿?」
「さあ…、私には検討もつかない」
諸行無常の真理を理解しつつも、シグナスは一度として一族の滅びを想像したことがない。本邸に掲げられた古くさいタペストリー――中世にまで遡れる歴史あるブラック家の血を引く彼は、ブラックの歩みを魔法界の歩みそのものとして捉えている。自分の一族同様、魔法界は未来永劫揺るぎないように思えた。
ヴォルデモートはやや乱暴にカップを置いた。
「【穢れた血】とスクイブについては、いかがお考えか?」
口調は変わらず、ゆったりとしている。だが、シグナスは何故か詰問されているような不快感を受けた。純血の生まれは望ましい。弟から仕入れたマグルの文化は認めつつも、マグル出自の者と深く関わりたくない思いもある。だが…――
「年々減りゆく純血を思えば嘆かわしいが、魔法族の相続のためには仕方ない。何せ、魔法族は数が少ない。何処もかしこも血で結ばれてしまい、濃くなりすぎている。近親婚を繰り返すと生殖能力も低下するらしいですしね。外の血を入れることも必要かと」
紅茶で喉を潤して言うと、
「これは……ブラック家に連なる方とは思えぬ回答だ。マグルの血を入れることで、魔法族の因子が低下し、結果スクイブができることを、よもやご存知ないわけではないでしょう。彼らさえ退ければ、我らにとって有意義な世界が確立できるように思いませんか?」
「スクイブ発祥の原因は別なところにある、と思う。あなたが何を申し出るつもりは存じ上げないが、お引取りを。それに姉は今、身ごもっている。こんな話を耳に入れて余計な負担をかけたくない」
姉も、そして一族の者もマグルや混血を毛嫌いしている。【穢れた血の排斥】と聞けば、例え得体の知れない相手からの誘いであろうと、腰を上げるに違いない。もちろん旗頭も、指揮を執るのもブラック家といった形で。そして白黒はっきりつけたい性質の姉は、魔法界からのマグル排斥に留まらず、マグル界の侵攻も行うだろう。今の世に魔法族とマグルとの戦いを引き起こす必要があるだろうか。魔法族とマグルの住み分けもなされ、平和になったこの時代に。
魔法族は侮っているが、マグル学に精通したシグナスは、彼らが世界そのものを滅ぼしうる力を持っていることを知っていた。下手に刺激し、全面戦争にでもなったら一大事となる。
ヴァルブルガが今この時期に妊娠しているのは運がよかったとしか言いようがない。人目を避け、家にこもっているせいで、この男と直接知り合うことはない。彼女に意見できるとすれば、妻であるドゥルーエラの言葉だけだ。そして、幸いなことにドゥルーエラはマルフォイ家を嫌っている。マルフォイ家の客人であるこの男に近づくことはまずないだろう。
「身ごもっている? レディ・ヴァルブルガが? それは、めでたいことだ。次なるブラック当主がじきに生まれる、か」
紅茶をグイと飲み干すと、ヴォルデモートは立ち上がった。礼を失さないよう立ち上がったシグナスに優雅な会釈をして、笑った。申し出を断られたことなど、まるで問題にしていないかのように。
「それでは、ブラック卿……今日はこれで。いずれ、またお会いすることになりましょう」
シグナスはなんと返したものか言葉に詰まり、軽く頭を下げた。片眉を上げ、困惑した表情のまま。ヴォルデモートはくるりと背を向け、大股に部屋を出て行った。シグナスは客人を玄関ホールまで見送るのを忘れ、しばしその場に立ち尽くしていた。